Timeline 60s


1960

民國49年、昭和35年

33 主演映画『人海弧鴻』公開(香港)…華聨公司製作。監督:李晨風。主演:呉楚帆、白燕、馮峰。

 

 

●父である李海泉の粤劇一座が米国公演のためシアトルを訪れる。(諸説あり)

 

 

●シアトル・タイムズの編集室を訪問。

 

 

シアトル・タイムズで折り込みなどのアルバイトもする。

 

 

シアトルタイムズ紙「マイク・リーはたくさんの運を望んでいる。グンフーの世界をご紹介」ーウェルダン・ジョンスン 掲載。

 

 

18日 ブルース・リーの日記より「放課後に黒人がグンフーを習いたい言いにきた。彼は柔道の茶帯で体重は82キロほどの不器用な男。きちんと指導すれば上達しそうだ」

 

 

 

110日 ブルース・リーの日記より「京は黒人のアパートに行き、グンフーを教授」

 

 

 

26日 ブルース・リーの日記より「今日はジェシーとフック・ヨンさんとYMCAにてターキー・木村と出会った」

 

 

 

この頃に学校のクラスメートであるハワード・ホール、パット・フックス、スキップ・エルズワーズ、チャリー・ウーらが次々と弟子入りをすることになる。

 

 

 

48日 金曜日20時シアトル大学にて「Chinese Boxing - Judo demonstrationBruce Lee VS Masafusa Kimuraなど「Fight Night」各試合が行なわれた。

 

 

 

5月16日 香港の友人であるホーキンス・チェンに手紙を投函する。 病気のホーキンス・チェンを気遣う内容と近況を記す。木人椿はすでに香港から発送してもらっている。1961年に大学に進学予定だが専攻はまだ決めていないなど。

 

 

6  フレッド佐藤の柔道道場に通う。

 

 

819日 チャイナタウンのグランドシアターにて粤劇の公演中、ユーニス・ラムとチャチャチャダンスを共演。 同時に弟子達とデモンストレーションを披露した。

 

 

9月 ルロイ・ガルシアが弟子入り。

 

 

9 14日 カシアス・クレイがローマオリンピックでライト・ヘビー級で金メダルを獲得した。

 

 

104日 シアトルのタコマ空港に皇太子、同妃殿下が戦後初の日米友好のため、2人で初の外国訪問を行う。午後330分に政府専用機にてシカゴから到着。

 

 

105日 皇太子、同妃殿下がワシントンパーク植物園内シアトル日本庭園で日系人会主催の歓迎式典に出席の後、次の訪問地ポートランドへ出発。

 

 

1028日 イェスラー・テラスのジムにて柔道と功夫のデモンストレーションを披露。 会場はYesler Terrace Gymasiumにて、夜の20時より。 クンフーを実演中に日本人の空手有段者:植地氏から挑戦を受けるがブルースは挑戦を退ける。

 

 

●この頃、シアトルのローカルテレビ番組KUOW 午後7時から730分まで『The Oriental Art of Self-Defense 東洋の護身術』にフレッド佐藤と共にレギュラー出演。


111日 ついにシアトルYMCAにて空手家植地(初段)と対戦し、僅か13秒で勝利。 立ち合いはエド・ハート氏、ジェシー・グローバー氏、ルロイ・ガルシア氏。

 

 

122  エディソン職業専門高校を卒業

 

 

12月 ターキー、ジェシー他、多くの生徒とジェシーの住込み先で演武写真を撮影。

 

 

●葉問の妻である張永成が中国彿山にて病死。

 

 

 


1961

民國50年、昭和36年 ●ワシントン大学へ春の四半期入学

●Mitoshi Uyeharaがカルフォルニア州バレンシアに拠点を置き、格闘技雑誌「Black Belt Magazine」4月号を創刊。以降、1973年まで編集者として活動を続ける。

この頃、 ジェームズ・リーはサンフランシスコのチャイナタウンにあったKin Mon Physical Culture Studioで指導を受けていたSil LumTY・ウォンのもとから去り、この時に友人のレオ・フォンを誘いオークランドでトレーニングを始める。そして独自のカスタム武具を作成し、ボディビルにも重点を置いたストリート・ファイトのためのトレーニングを成功させた。やがて彼を慕いウォーリー・ジェイやラルフ・カストロやアル・ノヴァクやエド・パーカーらとのネットワークを構築。

 

 

214日 柔道と功夫のデモンストレーションを披露。印刷されたポスターの年度が間違い、手書きで書き直すはめに。 会場はYesler Terrace Gymasiumにて、夜の2030分より。

 

 

220日 李海泉「天賜福星」Lucky Child Granted by Heaven 公開。

 

 

228日 李海泉「戇姑爺」The Idiotic Son-in-Law 公開。

 

 

3月 エド・ハートに手紙を投函。 大学への入学要件を整えるのに忙しい日々、27日からの春の四半期に入学します。 FookYang氏と2回もテレビに出演した。現在10人の学生の生徒がいてクラブは形になりつつある。大学ではShusoが教えている柔道クラスを専攻してみたい。

 

 

327日 ワシントン大学(University of Washington)心理学系哲学科に入学_University of Washington, 4014 University Way NE, Seattle WA 98195

 

 

●兄ピーターもシアトルに滞在。

 

 

4月 シアトルのチャイナタウンに振藩国術館を開設。Jun Fan Gung Fu Institute at 4750 University Way, Seattle WA 98105. ルビー・チョウの下宿からここに引っ越しをする。

 

 

ブルース・リーは自分の格闘法を自分流のグンフーという意味で、彼の名前である「振藩」と「功夫」を合わせて「Junfan Gung.Fu 」と呼んだ。

 

 

4月 月刊誌「Black Belt Magazine」が創刊。編集長はマウイ島出身の日系ハワイアンのMitoshi Uyehara氏。

 

 

48日 ハイライン高校にて功夫デモンストレーションを開催。

 

 

5月 ニューヨークのエド・ハートに手紙を投函。

 

ジェシーは黒帯に昇級してチャイナタウンのGreen Hotelに住んでいて、週末にロイ・ガルシアで働いている。現在、経済的な問題でアルバイトが忙しくクラブが進んでいない。

 

 

528日 Seattle Post-Intelligencer紙 「Self Defense Program Subject

 

 

529  Seattle Daily TimesEducational TV 7:30Self Denfense Bruce Lee U.W.student, Demostrates the Chinese art of Gung Fu.

 

 

67日 李海泉「孤兒救祖」The Orphan's Adventure 公開。最後の映画出演作となる。

 

 

8月 トレードフェアの会場にてジェシーグローバーと演武。

 

 

   この頃、シアトルの日系人が主催するコミュニティの盆踊りまつりで行ったブルース・リーの演武を見たダグ・パーマー氏がその素晴らしさに共感し弟子入を希望。 翌週に16歳のダグ・パーマ氏は13歳の少年ロジャー・ケイとヒッチハイクでブルースのグンフー教室を訪れた。

 

 

   この頃の教室はルロイ・ガルシアの自宅のログハウスの庭で行なわれていた(ダグ・パーマー談)

 

 

   ブルースはルロイ・ガルシア邸ではじめて銃の手解きを受けた(ダグ・パーマー談)

 

 

引き続き、フレッド佐藤の柔道クラスに通う。

 

 

●デイリー誌の編集室を訪れ、グンフーのデモンストレーションを行う。

 

 

地元シアトルの新聞に「グンフーのデモンストレーション」記事掲載。

 

 

●東宝とキャセイの合作「香港の夜」が公開される。 宝田明と尤敏とのラブロマンス。香港と東京など各国の国際都市を跨いで舞台としている。B-707ジェット旅客機の勃興期のパンアメリカン航空が撮影協力している。日本映画界での最初の香港の女優が登場した。 これ以降、尤敏とキャセイと後のゴールデン・ハーベストは東宝と良好関係を維持していく。

 

 

●この頃から最初の恋人である日系の三宝恵美子さんと交際。 大学のスチューデント・ユニオン(学生会)で、ブルース・リーから急に腕を掴まれ、「つき合ってほしい」と。 「ブルースはアクション俳優への夢や、後の死亡遊戯に繋がる構想などを三宝さんに語っていた」

 

 

●大学時代の友人であるロニー金子氏は「厳密に言えば三宝さん以前にも数人の女性と交際していたが、すぐに別れた」とのこと。

 

1018日 「ウエストサイド物語」全米公開。リンダ・エメリー夫人の大好きな作品。初めてブルース・リーを見た印象が「ジョージ・チャキリスみたい」とのこと。


1962

民國51年、昭和37年

 

TY Wong がChinese Karate Kung-Fu: Original ‘Sil Lum’ System」を出版。

ジェームズ・リーにむけて挑発的な同じポーズをとる8歳の息子の写真を掲載し、サンフランシスコのチャイナタウンに在住のTYウォンとの関係に緊張が高まった。

 

3月4日 Seattle Post-Intelligencer紙 「Self Defense Course on 9」

 

4月21日 シアトルで万国博覧会が開催。

 

●シアトルの万国博覧会を家族で視察中のアレン・ジョーがルビーチョウのレストランでブルース・リーと出会う。 博覧会での三宝恵美子さんとのデートの写真も残されています。

 

●オークランドでアレン・ジョーの紹介でジェームズ・リーと出会う。(諸説あり)

孫娘の初めての誕生会を開催した時、友人がブルースを連れてきた(ウォーリー・ジェイ談)

 

5月18日 Seattle Post-Intelligencer紙 「Chinese Pugilism Exhibition Slated」

●ブルースのグンフーに興味を持ったラッセル・キュラー博士の計らいにより、Meany Hallにてデモンストレーションを行い200人ほどの学生が集まった。

 

●友人に連れられて、アメリカ柔道界の父、ウォーリー・ジェイ氏のアラメダの自宅を訪問、意気投合する。以後、互いにシアトルとアラメダを行き来する仲に。

柔道と柔術を体験し、自身の格闘にサブミッションの有効性を加えることになっていく。

 

●ガフィルド高校 "Garfield High School" にて中国哲学のクラスでグンフ教室を行う

 

●ガーフィールド高校の校内誌「中国の映画スター、ブルース・リーがガーフィールドの上級生に公演。グンフーは護身の手段であると同時に一つの生き方でもある」ーシンディ・サル

89日 カナダのバンクーバーB.C.のチャイナタウンのホールにてグンフーの演武を披露。参加者はターキー・木村、ダグ・パーマー、ジェシー・グローバー、ジェームス・ディマイル、スキップ・エルズワース、ルロイ・ガルシア。

 

●夏の終わりにダグ・パーマーがコネチカット州のニューヘイブンにあるイエール大学に進学。

 

●この頃、ジェシー・グローバーとジェームズ・ディマイルとルロイ・ガルシアが教室を辞めてしまう(ダグ・パーマー氏談)

 

9月29日 ガールフレンドのパールに手紙を書く。

 

10月 ルビー・チョウのレストランの裏で著作本のための撮影を開始。

 

●葉問の息子である長男葉準と、次男葉正がともに中国彿山から国境封鎖された香港へ密航。葉問と再開する。

 

●三宝恵美子さんのブルース・リーの第一印象は「分厚いメガネをかけたヘンテコな青年」だった。

 

●三宝恵美子さん曰く「ブルースのグンフー仲間は喧嘩などで警察に捕まる人もいました。ブルースが最も信頼していたのはターキー木村氏のようにトラブルとは無縁の人だけだった。」

 

●三宝恵美子さん曰く「詩人であるワシントン大学で英文学の教鞭を執るセアドー・レトキー氏に1時間もグンフーについて説明していた」


1963

民國52年、昭和38年 ●渡米以来、初の香港へ帰省

●「基本中国拳法」初版を刊行。ジェームス・リーが知り合いの出版社に話を持ち込み実現。オークランドにあるオリエンタル・ブック・セールス社からペーパーバックにて出版。しかしながら当時はあまり売れずに在庫が残る事になってしまう。

イントロダクションはウォーリー・ジェイ氏。

この著作の内容を巡ってサンフランシスコのチャイナタウンにある少林拳一派と対立が激しくなる

●アンクル・サム(米国軍)から徴兵検査の呼び出し。結果は不合格。

 

3月6日 Seattle Daily Times紙「Sharp Young Man : Valuable Suitcase Restored to Alaskan」

 

3月15日  Seattle Times紙「International Area Looks to Wednesday」

 

326日 渡米後初の香港へ一時帰郷  渡米後、初めて香港へ帰国。空港で家族やマスコみから大歓迎な出迎えを受ける。8月までネイザンロードにある自宅に滞在。白人弟子(Doug Palmer)も後に同行。

 

6月26日 ホノルル経由でダグパーマー氏が香港啓徳空港に到着。ブルースをはじめ、家族が出迎える。「飛行機のタラップを降り駐機場に降り立って暑さと湿度と強烈な臭覚に襲われた」ダグ・パーマー氏談。 空港から李家の人たちとタクシーにて自宅へ向かう。

●ブルースの自宅はシャムロック・ホテルの真向かいにあり、入口は二件の店の間にあり、高級な装いではなく李家と親族の大家族で暮らしていた。長男のピーターと次女のアグネスは住んでいなかった(ダグ・パーマー氏談)

 

●葉門に個人指導を受ける。

 

●家族らと電車で沙田龍華酒店を訪れる。多数の組み手写真を撮影。また嶺粉駅で家族写真を撮影。

 

●従姉妹(父の兄の娘)のアイリーンの結婚式に家族で参列する。

 

●俳優仲間の杜平(Do Ping)の結婚式に参列

 

●ロバート・チェンらとの組み手や、キングスパークなどで詠春拳の組み手写真を多数撮影。(著作本に使用するため)

 

●女優のSally Chen Sha-Li 陳莎莉とデートをする

 

●7月、米国に帰国前にに包茎手術を受けたが、術後の容態は悪く、26日の米国の帰国を延期。

8月9日に変更したがふたたび帰国を延期。

 

●黄淳樑が葉問の元から独立。「黄淳樑詠春國術會」が誕生し、香港でも一大門派となる。

 

●ブルース・リーとダグ・パーマーがPAN AM航空機にて8月15日18:30発サンフランシスコ行きにて米国へ帰路。

 

8月15日 深夜帰国途中、東京に二泊三日立ち寄る。羽田空港から電車に乗り、銀座から徒歩県内の丸の内のビジネスホテルに宿泊。宿泊先は丸の内ホテルとのこと。スーツを新調した。

都内を散策中、銀座のはずれのレストランで食事、食後にチップを置き清算してレストランを後に。ウェイトレスが追いかけてきてチップを返却。チップ精度の無い日本の思い出のエピソード(ダグ・パーマー氏談)

 

8月17日 現地時間11:40 ハワイに到着。術後の回復がよく、ワイキキ近くの安宿に宿泊。エド・パーカーの依頼でホノルルのグンフー教室にてダグパーマーとグンフーの演武を披露。数日滞在後にサンフランシスコへ。

 

オークランドに立ち寄り、当時43歳のジェームズ・リーとの親交を楽しむ。巨漢弟子のアル・ノバァク氏とスパーリングをする。

 

シアトルに戻り、この頃の教室はユニバーシティ・ディストリクトの店先で行なわれていた(ダグ・パーマー氏談)陰陽のシンボルマークの入った専用のベストも用意され、本格的な装いとなる。一時期ブルース・リーはダグ・パーマーの自宅に1ヶ月ほど居候をする。

 

●著書『Chainese Gung Fu The Philosophical Art of Self-Defense 基本中国拳法』を500部アメリカ・オリエンタル・ブックセールズより自費出版、販売価格は5ドル。

古いKin Monの功夫衣を着用したジェームズ・リーとの比較スパーリングで伝統的なクンフー否定したことでサンフランシスコのチャイナタウンの古参連中からマナーの悪い反体制派のレッテルを貼られる事になる。

 

●この頃、三宝恵美子(Eimy Sambo)に失恋。ブルースにしつこく結婚を迫るが断られ、三宝さんはニューヨークへ引っ越す。


●ハワイの拳法であるka jyu ken bo のラルフ・カストロ氏と親交。空手のka と柔道のjyuと剣道のKenと拳法のbo の語を合わせたハワイで誕生した複合武術である。サンフランシスコの湾岸地区で最も早くケンポー道場を開いた一人であった。

 

8月(10月の説あり)道場をユニバーシティ・ウェイ4750番地に移す(この頃の月謝は一般22ドル、子供17ドル)

 

9月 米国徴兵委員会の健康診断不合格(睾丸停留のためという噂?)

 

9月 リンダ・エメリーがワシントン大学医学部に入学

スー・アン・ケイ(Su an Kei)の紹介でリンダ・エメリー(Linda Emery)が入門。

 

105  ブルース・リーの振藩國術館、チャイナタウンへ移転。Jun Fan Gung Fu Institute to 4181/2 8th Avenue South, Seattle WA 98104

 

10月10日 アニタ・ムイ 香港モンコクにて誕生。

 

1025   ブルース・リー、リンダ・エメリーと初デート。シアトルのスペース・ニードルにて。ブルースから贈り物としてスカンジナビア産のトロール人形と、リンダに似たお下げ髪のキューピー人形をプレゼント。

 

1028 ローレン・ホリー、生まれる。女優。映画「ドラゴン/ブルース・リー物語」のリンダ夫人。

 

12月 ガーフィールド高校で演武の際、1インチパンチを初披露

Bruce performed gung fu demonstrations at Garfield High School, 400 23rd Avenue, Seattle WA 98122.

 

12月 ターキー木村とチャイナタウン・コミュニティセンターで演武。


12月19日 中村頼永氏が三重県に誕生。

 

12月 クリスマスが過ぎて間もなく、ブルースとリンダは車でオークランドまで行き、ジェームズ・リーを迎えに、それからエド・パーカーを訪ねるためパサディナへ向かう。


1964

民國53年、昭和39年 ●ダニー・イノサントが弟子入り ●リンダ・エメリーと結婚

●ジュン・ファン・グンフークラブを各地に広めたいので協力して欲しいとのジェームス・リーが受託。自ら生徒となり、自宅のあるオークランド市に支部を構える事になる。これによりブルース・リーはオークランドとサンフランシスコ地区の活動に邁進するようになる。

 

●葉問、武館を閉鎖。モンコックの通菜街の一室で個人教授を開催。

 

●ウォーリー・ジェイの会合でレオ・フォンと知り合う。以降、レオ氏も時折オークランドのジャームズのガレージでの稽古に参加する。

 

●中国で林彪による抗日時代の精神回帰を目的とした「毛沢東語録」が人民解放軍向けに発売され、1966年には一般大衆向けにも出版され、大衆はますます毛沢東を神格化させていく。

 

2月1日 ターキー・木村氏、Jun Fan Gung Fu Institute ステージ4級の免許取得。

 

2月25日 カシアス・クレイがフロリダ州マイアミビーチ・コンベンションセンターにて、WBA・WBC統一世界ヘビー級タイトルマッチ戦で王者ソニー・リストンを6ラウンド終了時棄権によるTKOで破って、初の世界タイトルを獲得。

 

2月26日 カシアス・クレイがイスラム教の異端派ネーション・オブ・イスラームに入信を発表。奴隷化される前のアフリカ系アメリカ人の宗教はキリスト教ではなくイスラム教であると説き、白人社会への同化を拒否して黒人の経済的自立を促した。 「クレイは奴隷の名前だ」モハメド・アリと改名。同時期に内部抗争の影響でマルコムX が同教団を去る。

 

4月3日 ジェームズ・Y・リー氏がJun Fan Gung Fu Institute ステージ3級の免許取得。

 

5月 ワシントン大学を中退。

 

6月 57年製のフォードを売り(Black Ford Fairlane)、オークランドへの支度金をつくる。

 

6月20日 電懋キャセイ・オーガニゼーションの陸運濤ら役員が台湾の第11屆亞洲影展に参加の後、台中への飛行中にハイジャック事故に遭遇し全員の死亡が確認される大惨事が発生。

これ以降、香港映画界でのキャセイの弱体化が始まる。

6月から7月にかけ、台湾・香港・マレーシア・シンガポールで葬儀が行われた。

 

7月 電懋キャセイ・オーガニゼーションの新代表に朱國良が就任。

 

7月17日 リン・ダイ(林黛)ショー・ブラザーズの大スターであったが、睡眠薬を服用して自殺。享年29歳。

 

7月 ウォーリー・ジェイ主催の多くの格闘技関係者が集うサマー・ルアウに参加のためオークランドに向かう。ワンインチ・パンチなどのデモンストレーションを披露し驚嘆させるが、伝統的なグンフーの批判をして反感もあびる(ダグ・パーマー氏談)

 

719 単身カリフォルニア州オークランド(ジェームズ・リー宅)へに移り住む_James Yimm Lee (no relation) and family in the Maxwell Park area of Oakland at 3039 Monticello Avenue, Oakland CA 94619

 

まもなくジェームズ・リーの妻キャサリンが亡くなる。

 

 

82 ブルース・リー、エド・パーカー主催の「第1回 International Karate Chanpionships 1964」にターキー木村をパートナーに登壇しジュンファン・グンフーの演武を披露。ダン・イノサントおよびジューン・リーと出会う。

この日の観客の中のTVプロデューサーのウィリアム・ドジェーの目にとまる

また、護身具クボタンの開発者として知られる空手家タク・クボタ(国際空手道剛速流宗家 窪田孝行)とも出会う。

感銘を受けたダニー・イノサント氏が弟子入りを表明。

 

83日 ブルース・リー、オークランドのブロードウェイに振藩國術館オークランド設立。 Jun Fan Gung Fu Institute at 4157 Broadway, Oakland CA 94611.

 

●この頃から1965 年 2 月まで、新婚のブルースとリンダ リーは、この小切手に記載されている住所、モンティチェロ アベニュー 3039 番地(3039 Monticello Ave)のジェームズ イムとキャサリン リーの家に住んでいました。

 

● この頃からダニー・イノサント氏は毎週、車でオークランドに通いブルース・リーの指導を仰ぐようになる。

 

●ダン・イノサントとシグイ劇場などで振藩功夫の模範演技。

 

812日 リンダと結婚のためシアトルに戻るがリンダの母ビビアンに猛反対される。

ジェームズ・リーの妻より結婚指輪を借り、親の承諾の無いまま郡庁舎で結婚許可申請 

 

814日頃 新婚者としてシアトルの新聞に掲載。リンダ側の親戚が集まり家族会議が催される。

 

817日 ターキー木村の介添によりプロテスタント協会でリンダ・エメリーと結婚。

 

●この頃シアトルにてダグ・パーマー氏が恋人の後藤紀子サンをブルース・リーに紹介するが、ブルースの傲慢で自己中心的な態度に不快感を感じた(ダグ・パーマー氏談)。

 

93日〜7日  Diana Chang Chung-wenの最新主演映画を指示してプロモーションツアーに同行。サン・シン劇場でチャチャを披露。

ステージは4:309:302回「張仲文子姐登台献芸 李小龍先生登台客串」

香港の映画雑誌「南国電影」196411月号にアメリカのLAをステージ巡業した張仲文(ダイアナ・チャン)の記事中に未公開・激レアのブルース・リー写真(118.5cmサイズ)が掲載。

当時24歳だったブルース・リーがこのダイアナをエスコートし、ステージ上で一緒にチャチャを踊る姿が写真に収められています。

この時の彼のカジュアルなデモンストレーションと伝統的なグンフー批判が会場に来ていたウォン・ジャックマン関係者の不満を買うはめになる。 

 

10月19日 John Chorbajian を$135で購入。

 

10月22日 レオ・フォン宛に手紙を書く。「もしも興味があれば、Jun Fan GungFuの普及のため、アシスタント・インストラクターをお願いしたい」

 

10月30日 同日付けにてオーストラリア在住のウィリアム・チェン宛に手紙を書く。

 

11月 女優のElke SommerとJoseph HyamsがLas Vegasにて結婚。後に二人ともブルース・リーに大きく関わることになる。

 

11月 金曜日、サンフランシスコ・チャイナタウンから北派羅漢拳の達人ウォン・ジャックマン一行からの挑戦状を受け、約30秒で仕留める。戦いに勝利するも時間がかかった事に疑問を抱き自分の方向性を考え始める。

 

11月21日 同日付けでオーストラリア在住のウィリアム・チェン氏に手紙を投函。

 

11月26日 サンフランシスコのチャイナタウン紙の太平洋週報がブルース・リーとウォン・ジャックマンの戦いを報じ、事実と異なる内容にブルース・リー側が反論。

 

12月17日 太平洋週報はブルース・リー側の言い分を紙面に掲載。

 

●グレートデンの愛犬ボボを飼う(ターキー木村宛に子犬を飼ったという手紙が存在)

 

●この時期より体力強化の集中トレーニングを始める。トレーニング器具はジェームズ・リーが溶接で製作する。

 

●ハワイアン空手師範アル・ダカスコスとのトラブルに巻き込まれそうになるもブルースが陰謀だと気ずき事なき終える(噂)

 

●ウォーリー・ジェイ氏によれば、チャイナタウンの蔡李仏家拳の劉淋に挑戦を考えていたとのこと。

 

●ブルース独特の怪鳥音は「ケンポー空手」の気合いを発するスタイルに徐々に影響を受ける。

この頃はまだケンポー空手出身のダニー・イノサント氏が発するのみであったという。


1965

民國54年、昭和40年 ●ヌンチャク伝授 ●父の李海泉が死去

●飛行機事故で死亡した陸運涛の妹婿、朱国良によって電懋を国泰機構(香港)有限公司/Cathay(Hong Kong)と改名し、立て直しを計る。

 

●アメリカがベトナム戦争に参戦。これ以降、18歳から26歳までの男性の徴兵検査と志願兵募集が始まる。この頃より富裕層とベトナム戦争支持者とのジェネレーション・ギャップによるベビー・ブーマーの若者達のカウンター・カルチャーによる様々な運動が始まる。「ドラッグ」「反戦運動」「ヒッピー」と行った文化が全米の若者に広がる。

 

●一般的に「ヌンチャク」と呼ばれているブルースの代名詞となる武器は、フィリピン武術のカリの技法を基礎とする「タバクトヨク」「オリシトヨク」をダニー・イノサントから紹介された事に始まる。ブルースは大いに興味を持つ。「ヌンチャク」という響きから中国の福建省辺りが始まりかと云う説もあります。(諸説あり)

 

1月28日 太平洋週報にウォン・ジャックマンの戦いの詳細コメントが掲載された。負けは認めず再戦が必要ならば公の場で戦うとの記事。


2月1日  カリフォルニア州オークランドのイースト・オークランド病院にて長男ブランドンが生まれる。李国豪リー・グォハオ(英文名brandon Bruce Lee 

 

2月4日  21世紀フォックス社スタジオにてTV『チャ−リー・チャン』新シリーズ用のスクリーン・テスト《陳査理長子》(Charlie Chan’s No.1 Son)を受ける。

この時ブルースが中国拳法の「型」以外に、空手のフックキックやフィンガージャブや裏拳を披露した。日本では後に映画「グリーン・ホーネット」公開時に同時上映「ブルース・リーのドラゴン拳法」として公開される。

 

2月7日 米軍が北ベトナム領内に対する爆撃「北爆」を開始、ベトナム戦争への本格介入に踏み切った。

 

28  父の李海泉が他界。 やがてブルースはリンダとブランドンをシアトルに送り、単身香港へ一時帰国、父親の葬儀に参列する。


2月15日 リンダ夫人への手紙「家族全員が悲しみと混乱の中です、昨日の午後4時に埋葬を済ませた」

 

2月17日 リンダ夫人への手紙「遺産問題について」「今日はようやく銭湯で入浴とマッサージで快適な1日を過ごせた」

 

2月21日 リンダ夫人への手紙「明日、結婚指輪を買うつもりだ、ブランドンを連れての船旅は、香港を訪れるのはまるでハワイから日本、そして香港までのハネムーンです」

2月21日 イスラム教伝道師のマルコムX が、かつて所属していたネーション・オブ・イスラームとの対立が影響してニューヨークにて銃弾15発を受け暗殺された。モハメド・アリが最も尊敬していた同氏の死にショックを受ける。アリは生前のマルコムに、ネーションを脱退してスンニ派イスラム教に改宗しろと言われていた。

 

2月22日 リンダ夫人への手紙「今日から11日後の3月6日の便で戻る予定です」

 

2月25日 リンダ夫人への手紙「帰国の便名は624Y ウエスタン航空です。午後10時7分シアトル着です、1週間くらい滞在して状況をみます」

 

2月26日 リンダ夫人への手紙「あなたのためにエバァ婦人と一緒に香港中を駆け回ってヘアウィグを買った、またダイヤの指輪も買いました、そして広東語を学べるの本も買いました」

 

2月29日 リンダ夫人への手紙「ピーターはおそらく1年は香港にとどまると思います。アグネスは8日に出発予定です。ピータージョーンズは今は日本にいて数日後に戻ってきます。彼は4月にカナダのバンクーバーに引っ越しとのこと」

 

3月3日 リンダ夫人への手紙「3月6日の香港時間に出発して、不思議な事に3月6日のアメリカ時間にサンフランシスコに到着します、そしてウエスタン航空に乗り換えてシアトルに到着です。便名は624Yです」

 

●ブルース・リーがオークランドの自宅に戻る。

 

●フォックスのスクリーンテストの結果は見事に合格! しかし中国人探偵が活躍する「ナンバーワンサン」の企画が棚上げとなるが、契約料として1800ドルを受け取った。

 

324日 プレジデントライン号にて今度は妻子を連れて香港へ戻り、917日まで滞在する。息子ブランドンを連れて師匠の葉問を訪問。

 

430日 Progressive Management CorporationWilliam Belasco1年間の契約。


5月10日 ターキー木村氏への手紙「3ヶ月ほど香港に滞在します、しかし20世紀FOXから連絡が来ればすぐにハリウッドに戻ります。代理人のベラスコと契約を結んでいます」

 

5月25日 カシアス・クレイとソニー・リストンがメイン州ルイストンで世界タイトルをかけ、1ラウンド2分12秒でクレイがKO で勝った。初防衛を制する。 ブルース・リーもテレビ観戦してクレイの衝撃のKO 勝利にとても驚いた。

 

5月28日 ターキー木村氏への手紙「蒸し暑い天気を除けばリンダは香港を楽しんでいる、彼女はかなりの洋服を注文しています。代理人のベラスコは7割の確率で20世紀FOXから知らせが来るだろうと言っている。大山倍達のThis is karate は古典的だがかなり面白い。カシアス・クレイとリストンの試合はショックだった」

 

6月7日 ターキー木村氏への手紙「マネーオーダーをありがとう、ロバート・ワイズが砲艦サンパブロの一部について私に連絡があるそうだ」

 

68日 バットマンの制作会社であるGreenway Productions,Inc とオプション契約。

 

721日 ブルース・リー、生後5カ月のブランドンをつれて師のイップ・マンに会う。

 

729日 オークランド道場の共同経営者のジェームズ・リーに宛てて手紙を書く。「イップマン師父との撮影は終了しました。130枚以上の写真が撮影され、その他の多くのテクニックも合わせると200枚以上の写真があります。彼は今年66歳の筈で、私の将来の書籍の価値が高まる」

●ブルース・リーはイップマン師父に伝承詠春拳木人椿法108技法の後半部を習いたいと申し出る。

 

813日 オークランド道場の共同経営者のジェームズ・リーに宛てて手紙を書く。この頃の2人の手紙のやり取りは格闘技法の話に重視した内容である。


●ノラ・ミャオが香港少女ファッション・コンクールに参加。この時の優勝者はファン・ボーボーである。

 

9月 シアトルのリンダ夫人母の家へ4ヶ月滞在  

2332 Eleventh East Seattle,Washington 98102

 

9月15日 ロバート・カルプ出演のNBCテレビシリーズ「アイ・スパイ」シーズン1が放送開始。翌年4月27日まで放送。

 

1116日 友人のRovert Pevonakからの推薦文を同封した手紙をGreenway Productions,Inc宛に送る。

 

1123日付け Greenway Productions,Incから返信の手紙を受ける。「グリーン・ホーネット」の加藤の役を得る事になった。

 

●この頃より独自の武道であるジークンドー(截拳道:JEET KUNE DO)を創始をはじめる

 

●年明けまでオークランドのジェームス・リー宅へ一時移る。

 

●12月のクリスマス休暇を利用してダグ・パーマーと後藤紀子さんがシアトルで親族のみの立ち合いで結婚式を挙げた。ブルース・リーとは疎遠になっており検紺式には参列していない。(ダグ・パーマー氏談)


1966

民國55年、昭和41年 ●ABCテレビの「Green Hornet」出演

●兄の李忠琛が林燕妮と結婚。

 

●1月 ダグ・パーマーの弟のマイクがスタンフォード大学の2年生となりボクシングを始め、ブルース宅を訪れた。ブルースの解説付きでボクシング・フィルムを楽しむ。ブルースはジャック・デンプシーがお気に入りで、VSジェス・ウィラードの試合のフィルムも鑑賞した。

 

3月 L.A.Westwoodのウィルシア・アンド・ゲイリーのアパートへ転居 10976 Wilshire Boulevard (Wilshire and Gayley), Apartment 3, Los Angeles CA 90024

 

●リンダの母に頭金をだしてもらい新車の青いシボレー・ノバァを購入。

 

2月20日 サンノゼで開催された第一回 United States Karate Winter National Championsships に参加。会場はSan Jose Civic Auditorium 

 

●3月のある日、車中でダニー・イノサント氏とフェンシングのStop Hit について語り合う、この語りの最中にブルース・リーは我々の格闘法はStop Hitting Fist Style もしくは Intercepting Fist Style と呼ぼうと提案。ダニー・イノサント氏はそれを広東語で呼ぶとと質問して「Jeet Kune Do 」という名称が姿を現した。

 

3月     ジェフ・マーレーの演技学校に1ヶ月間通いジェフ・コーリーの演技レッスンを受ける。

 

34  テレビ番組『グリーンホーネット』のパイロットフィルムを撮影。


3月6日 ラルフ・カストロ主催のCalifornia Karate Championship Tournamentにゲスト出演。(詳細不明)

 

3月22日 香港尖沙咀の西岸の九龍スターフェリー桟橋「九龍埠頭」が、クルーズターミナルとして使用するために再建および拡張され、複数階建てのショッピングセンターとして「Ocean Terminal」としてオープン。

 

●ジェームス・コバーン、リー・マーヴィング、ジェームス・ガーナー等が弟子入りする

4月頃、プライベートレッスンが盛んになる。ヴィック・ダモーンやドン・ゴードン、ロイド・サクソンなど

 

●ラス・べガスにてフランク・シナトラにプライベートレッスンを予定(ターキー木村談)


3月29日 ターキー木村への手紙「昨夜に香港の母が7月末にやってくると電話があった、木人も出来上がりターキーにも送る準備が出来ているそうだ」

 

4月4日 ハワイのローカル新聞「Honolulu Star- Bulletin」にJames Uyehara氏のインタビュー記事が掲載される「空手は関連スポーツとの地位を獲得する」


4月9日 フレッド佐藤への手紙「現在、20世紀FOXは私を演劇スクールに通わせている、コーチは最高のジェフ・コーリーさんです。1時間あたり70ドルです。」

 

4月14日 午前にジェフ・コーリー氏の指導。午後からグリーン・ホーネットのリハーサル。

 

4月15日 グリーン・ホーネットのリハーサル。

 

4月16日 午前中はAdco書店に。午後はバーリントン・プラザを下見に。

 

4月17日 大映製作「大魔神」日本公開。大魔神役のスーツアクターは橋本力。併映作は「大怪獣決闘ガメラ対バルゴン」

4月27日 北米報知新聞がシアトルのユニオン街108に設置されていた米国陸軍志願兵受付所にて、ベトナム行き米兵志願が激減と報道。

 

5月 トム・ブリーカー氏の紹介でバーリントンプラザ近くの3階のアパートへ転居。

_Barrington Plaza apartments   11740 Wilshire Boulevard, Apt A-2308, Los Angeles CA 90025

 

5月16日  中国で毛沢東の権力保持のため、資本主義を撤廃し多くの知識人や資産家らを迫害した悪法「文化大革命」が始まる。

毛沢東語録を発行し、感化した学生から紅衛兵らを増員して改革を進めていった。以降、毛沢東が死亡する1976年まで続き国内の混乱を招く。

 

66日 ABC-TVシリーズ「グリーン・ホーネット」《青蜂侠》にケイトー(加東)役で出演、撮影開始。プロデュースはGreenway Productions20th Century Fox。

 

6月21日 William doizaに手紙を書く、ブルース・リーは加東の控え目な立ち位置に不満を感じ、イメージの改善を訴えてみた。

 

8月13日 大映製作「大魔神怒る」日本公開。大魔神役のスーツアクターは橋本力。併映作は「座頭市 海を渡る」


この頃、「グリーン・ホーネット」第5話のエピソードに出演した女優のソーディス・ブラントとデートを重ねる。

 

8月16日 Greenway Traveling 129ドル68セントで購入。

 

8月22日 「グリーン・ホーネット」のPre open promotionのため、サンフランシスコ、ソルトレーク・シティー、オマハ、トレド、ロチェスター、ニューヨークなどにツアーに参加。

 

9月初旬 ハリウッド・パレスの「ミルトン・バール・ショー」に出演。

 

99日 ABC-TV系列にて午後730分よりTVシリーズ『グリーンホーネット』第1話“The Silent Gun”放映

 

9月14日 ロバート・カルプ主演のテレビ「アイ・スパイ」シーズン2の放送開始。翌年4月12日まで放送。

 

916日『グリーン・ホーネット』第2話“Give'Em Enough Rope”放映。

 

923 『グリーン・ホーネット』第3話“Programmed for Death”放映。


928 『グリーン・ホーネット カトー役としてゲスト出演した『バットマン』第41話“The Spell of Tut (邦題“カブト虫には毒がある)”放映。


930日『グリーンホーネット』第4話“Crime Wave”放映。


10月 TV Guide October 29 ~ November 4  グリーン・ホーネット表紙号発売。


107日『グリーン・ホーネット』第5話“The Frog is a Deadly Weapon”放映。


1014日『グリーン・ホーネット』第6話“EatDrinkand be Be Dead”放映。

 

1015日 South Bay Annual Karate Championships 参加(プログラムにチャックノリスと共にサインあり)シリファント夫妻、エルケ・ソマー、ジョセフ・ハイアズム夫妻も出席。

 

1021日『グリーン・ホーネット』第7話“Beautiful Deramer PART1”放映。


1028日『グリーン・ホーネット』第8話“Beautiful Deramer PART2”放映。

 

11月5日 ベンチャーズの「グリーン・ホーネット」のシングルレコード盤が国内発売。「バット・マン」よりも少し大人向けに企画され、バン・ウィリアムスとブルース・リーの主演による大変楽しい番組だそうです。製作は20世紀フォックス社、NBC-TV網で放送されております(日本ではNETで来年早々に登場します)この「グリーン・ホーネット」のテーマ音楽はバンド・リーダーとして有名なビリー・メイが作曲しています。 と記述あり。


1111日『グリーン・ホーネット』第9話“The Lay Is for Killing”放映。


1118日『グリーン・ホーネット』第10話“The Praying Mantis”放映。


1125 『グリーン・ホーネット』第11話“The Hunters and the Hunted”放映。


122  『グリーン・ホーネット』第12話“Deadline for Death”放映。


129日『グリーン・ホーネット』第13話“The Secret of Sally Bell”放映。

 

12月10日 大映製作「大魔神逆襲」日本公開。三部作の最終作となる。大魔神役のスーツアクターは橋本力。

12月23日 雑誌「テレビジョンエイジ」67年1月号にて日本国内初となるブルース・リーを紹介したグリーン・ホーネットの記事が掲載。


1216日『グリーン・ホーネット』第14話“Freeway to Death”放映。


1223日グリーン・ホーネット』第15話“May the Best Man Lose”放映。


1967

民國56年、昭和42年 ●独自の格闘術を正式にジークンドーと命名

●この年、自身の門派にあたるJeet Kune Doを設立。

「無法を以って有法と為し、無限を以って有限と為す」シンボルマークは陰と陽からなり、相手と融合する道であります。相手が陽できたら陰で融合させ、スキが生じた際に陽で仕留める。相手が押せば引き、引けば押し決して反発はせず、仕留める時も考えては駄目であり、自然に技がでる境地に達成することを目的とします。

●西海岸からヒッピー文化とサイケデリックが流行。ブルース・リーもファッションや思想に次第に傾倒していく。この当時ヒッピーに愛された三大思想家といわれたジッドゥ・クリシュナムルティ Jiddu Krishnamurtiとヒッピー文化に欠かせない占星術に興味を抱いていく。

 

●勝新太郎が大映株式会社から独立して、勝プロダクションを設立。

 

●伝承詠春拳木人椿法を参考に独自の改良を加えた「截拳道振藩木人椿法」Jun Fan Muk Yan Jong Sao を開発。指導の際に教えやすくするために型が10種あり基本的なジュンファン技術が凝縮されたものであったが、ダニー・イノサント氏以外には伝授されていないという。

「截拳道振藩木人椿法」は大別して「振藩木人椿法」と「振藩エクササイズ木人椿法」と「截拳道木人椿法」の3つがあります。

 

1月 著作本「The Tao of Gung Fu/A Study of the Way of the Chinese Martial Art」をオリエンタル・ブック・セールズより発行。価格は2ドル。

 

16日『グリーン・ホーネット』第16話“SeekStalk and Destroy”放映。


113日『グリーン・ホーネット』第17話“Corps of the Year PART1”放映。


1月17日 「グリーン・ホーネット」日本テレビ系で毎週火曜日の19時から19時30分枠にて放送開始。

1月17日 月刊テレビガイド 日本テレビ・読売テレビ午後7時「グリーン・ホーネット 空からの殺し屋」「きょうのみもの 007も顔負けの義賊が活躍」「科学的装備の万能車もみもの」


120日『グリーン・ホーネット』第17話“Corps of the Year PART2”放映。


127 TV『バットマン』にゲスト出演。


23日『グリーン・ホーネット』第19話“Bad Bet on 459-Silent”放映。

 

●この頃まで、ダニー・イノサントと太極拳のウェイン・チャンさんが経営するチャイナタウンの薬局屋裏で蔡李仏家拳のトニー・ハムと4人でトレーニング。

 

●一戸建ての借家に転居。 2509 W. 115th Place, Inglewood (Hawthorne) CA 90250

 

2月5日 (9日説もあり)  L.A.に3つ目の道場を開設。ロサンゼルス チャイナタウン、カレッジストリート628番地に振藩國術館開設_Jun Fan Gung Fu Institute at 628 W. College Street, Los Angleles CA 90012.

支部長はダニー・イノサント。

テッド・ウォンやダン・リーやジェリー・ポティートらケンポー・カラテの生徒達が弟子入り。 開設2週間で生徒が30人に。

この頃、1時間27.5ドルにてプライベートレッスンも行なう(スチュアート・ホイットマンやディーン・マーチンの息子のディーノなど)


2月9日 道場にて講習会を開催。ダニー・イノサントが師範代となり、エド・パーカーの門下生も多数訪れ、以降ブルース・リーの元で道場生として学ぶ。これにより一時的にエド・パーカーとのしこりが残ったとのこと。

2月9日 この日、ダニー・イノサント氏が認定証を受理。この認定書に「Bruce Lee’s Jeet Kune Do 截拳道」と書かれている。

 

210日『グリーン・ホーネット』第20話“Ace in the Hole”放映。


217日『グリーン・ホーネット』第21話“Trouble for Prince Charming”放映。


224日『グリーン・ホーネット』第22話“Alias The Scart”放映。


31 グリーン・ホーネット カトー役としてゲスト出演した『バットマン』第85話“A Prince of the Action(邦題 グリーンが町にやってきた)”放映。


32 グリーン・ホーネット カトー役としてゲスト出演した『バットマン』第86話“Batnan's Satisfaction(邦題 アルファベットは26文字か?)”放映。


3月3日  『グリーン・ホーネット』第23話“HornetSave Thyself”放映。

 

3月4日 ラルフ・カストロ主催のCalifornia Karate Championship Tournamentにゲスト出演。

(プログラムには記載があるが、実際にゲスト出演したか不明)

 

310日『グリーン・ホーネット』第24話“Invasion from Space PART1”放映。


317日『グリーン・ホーネット』第25話“Invasion from Space PART2”放映。


324日『グリーン・ホーネット』第26話“The Hornet and the Firefly”放映 これにて初回放映終了。

 

3月27日 York Barbell を$22.15で購入。

 

4「テレビジョンエイジ」誌にブルース・リー登場。生前日本で紹介された珍しい記事。

※「グリーン・ホーネット」の加東青年としてクローズ・アップ。

シリーズ終了後、チャーリーフィッチモンズ氏よりプライベート・レッスンの勧めを受ける。

1000ドルの料金を明記した名刺をジェイセブリングのスタジオに置いて顧客を募る。

 

4月 ジューン・リー氏に手紙を投函。「エージェントと取り決めをして、あなたが主催するトーナメントに行けると信じています。ただし、フライトプランが少し変更されています。つまり、ニューヨークからワシントンD.C.へのゲストのイースタンエアラインチケットです。 キャンセルしてください。代わりに、ニューヨークからシアトル、オークランドからロサンゼルスに飛ぶように手配してください。以前に送信したチケットを破棄し、改訂されたチケットを待ちます」

 

4月26日 ジョージ・リーに手紙。「5月1日にニューヨークに行き、それからワシントンD.C.へ、その後にシアトルに2日ほど、5月10日にはオークランドに行けるはず」「グリーンウェイ・プロが私の契約を引き継ぐ予定だ、私のために1時間番組が計画中です。」

 

4月28日 モハメド・アリは徴兵拒否、無敗のまま世界タイトルも剥奪された「自分の良心に尋ねて命令を受け容れれば、自分の宗教への信仰に忠実ではないと判断しました」アリはこれ以降、70年9月迄ボクシング界より追放される事になる。

 

5月 この頃より、テッド・ウォン氏がブルース・リーのプライベート・レッスンを受け始める。

 

5月6日  香港で中国の文化大革命の影響を受けた「67暴動」が勃発。以降、年内まで50人以上が死亡する大惨事となる。

 

5月 ジョージ・リーに手紙を書く。「5月26日にオークランドに行き、ジェームス・フリーモントのクラスに。アレンとあなたがこのクラスに参加できればなお良いのだが。」

 

56日 ブルース・リー、D.C. Armonyにてジューン・リー主催の(National KARATE championships)国際空手道選手権大会で模範演武(ジークンドーのフルコンタクトスパーリング)を行う。スペシャル・ハリウッド・ゲストに「アイ・スパイ」のロバート・カルプ氏。

 

●メイフラワーホテルでジョールイスと出会う。

同会場にてHector Quinones氏と出会う(記念写真撮影)

 

58/9日 シアトルに滞在。

 

521日 ロスアンゼルスのCalifornia State Collegeにて行われた「All Star Karate Championships Los angeles State College

 ●ブルース・リーとSoke 窪田氏はともにデモンストレーションを披露。 Tak Kubota, 4945 Hollywood Blvd.,

ルー・アルシンドもブルース・リーとともに出席。

 

6月 ジョージ・リーに手紙を書く。「今週の月曜日の夜9時30分にオークランドに行きます、そして木曜日の午後まで滞在し、その後ニューヨークに4日ほど、そしてシアトルに数日後にオークランドに戻ります。そしてマサツーセッシ州のスプリングフィールドに向かいます。

 

6月4日 クリープランドにて開催された暴力から黒人を護る団体「Negro Industrial and Economic Union」(NIEU)黒人産業経済組合の会議で、さまざまなスポーツ分野のアフリカ系アメリカ人のトップアスリートのグループが支援を求めて集まり、ボクサーのモハメド・アリがベトナム戦争中に徴兵を拒否した理由を語る、UCLAのルー・アルシンドやMartin Luther King Jr.も出席。

 

6月6日 ハワイの地元紙「Honolulu Star-Bulletin」ウエハラ兄弟の近況が掲載。「Black Belt」以外にもう一つの雑誌が創刊「Asian Adventure」今月発売。兄のMitoshiが38歳、弟のJames H.が34歳で共に既婚者であるとのこと。兄のMitoshiは編集者になる前は会計士、Jamesはエンジニアリング会社のスーパーバイザーであった。 

6月24日 ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでの全米オープン空手選手権大会「All American Open Karate Championship 」にて演武を披露。その夜から翌朝迄チャック・ノリス氏と意気投合して語り合う。

 

6月27日 シアトルに数日滞在。

 

●この頃からグレートデンの雌犬を飼う。名前はボボ。

 

7月9日 チャイナタウン道場にて、創始した独自の武道を「截拳道 Jeet Kune Do」と命名。(手帳に記載あり)

 

7月10日 Black Belt誌の取材、インタビューを受ける。 自宅でLittle Joeによる散髪。

 

7月12日 Black Belt誌の取材、フォト・シューティングを受ける。

 

714日 TV作品『鬼警部アイアンサイド』に空手師範役でゲスト出演。


7 月23日 午前10時30分にチャック・ノリス氏と会う。

 

724日 エド・パーカー氏がシアトルのターキー木村氏にロングビーチでの国際空手トーナメントへの参加のため航空チケットを郵送する

7月24日 ダニーイノサントの誕生日を祝うため、20時30分にチャイナタウンの道場でサプライズパーティーを開催。

Black Belt誌と打ち合わせ。

 

7月25日 「グリーン・ホーネット」日本テレビ放送分の最終回。

 

7月27日 ジューン・リーがL.A.に到着。

 

7月28日 ジューン・リーとテッド・ウォンらとフォトシューティング。

 

730 ロングビーチの国際空手トーナメント”International Karate Championship 1967”で演武(全身防具を着用したジークンドーのフルコンタクトスパーリング)を行う。

 

●この頃、Fighting Method martial arts booksの撮影を行なう。場所はPasific Palisades Beach。撮影者はJoseph Bodner (January 16, 1925 - May 28, 1982)

 

●マイクストーン、チャックノリス、ジョールイスらが毎週のようにブルースの自宅に出向き、格闘談義する

 

●Black Belt誌 October 1967に表紙特集記事「Is Green Hornet Version of Gung Fu Genuine?

 

●Black Belt誌 November 1967に特集記事「In Katos Ging Fu The Action is Instant


8月 この頃からブルース・リーがテッド・ウォン氏を自らのワークアウトパートナーとする。フェンシングとボクシングの利点を取り入れて、より実戦的であり、クンフーとは違う新しい格闘術をテッド・ウォン氏を相手に模索を始める。73年に死すまでのジークンドーの最終形態へと向かう事となる。

 

8月2日 スターリング・シリファント脚本の「夜の大走査線」 In the Heat of the Night がニューヨークから公開。

 

8月25日 スティーブ・マックイーン邸にてブルース・リーの個人教授が始まる。


9月 スティーブ・マックイーンが正式に弟子入り。

 

9月11日 ロバート・カルプ主演の「アイ・スパイ」シーズン3が放送開始。翌年4月15日まで放送。

 

●スティーブ・マックイーンとの交遊から次第にマリファナにのめり込む。

 

10BLACK BELT」で再び特集を組まれ、世界10大武術家の一人に選出される。

BLACK BELT11月号にて著作本の製作にとりかかっている事を発表する。タイトルは「TheTao of Jeet Kung」メディアに初めて「ジークンドー」という文字が記載された貴重で重要な号となった。

 

10月17日 大清国第12代にして最後の皇帝であった「愛新覚羅溥儀」北京にて死去。

10月17日 スティーブ・マックイーンがブルース・リーよりジークンドー1級の資格を取得。


10月20日 ブルース・リー邸にてチャック・ノリスへの個人教授が始まる。

 

1026日カラテ道場師範役として23分ゲスト出演した『鬼警部アイアンサイド』“Tagged for Murder(邦題 殺しのパズル)”米 NBCテレビにて放映。

 

スターリング・シリファント脚本の「夜の大走査線 In the Heat of the Night」が全米公開。

 

●この頃、ロサンゼルスに近いカルバーシティへ引越_4114 Van Buren Place, Culver City CA 90232

 

11月1日 ターキー・木村氏、Jun Fan Gung Fu Institute ステージ5級の免許取得。

 

11月4日 柔術家ウォーリー・ジェイ主催の柔術界記念式典に著名ゲストとして招かれる。

 

11月17日 全米空手チャンピオンのチャック・ノリスを個人指導(翌年1月まで)。…ノリスはこの頃、負けなしの強さを誇っていた。

 

11月頃 ワーナーブラザースのバーバンクスタジオにてジョン・ウェイン主演の「グリーンベレー」の殺陣を担当する。スタントではエド・パーカー、ジョー・ルイス、チャック・ノリスも参加。

11月20日 香港無線電視で蔡和平ディレクターによる長寿娯楽番組「観樂今宵」Enjoy Yourself Tonight が番組放送開始。

 

1127日 自宅で盛大な誕生日会を開催。シアトルからターキー木村も招待。


11月29日 楚原と南紅が結婚。

 

12月8日 テッド・ウォン氏、Jun Fan Gung Fu Institute ステージ2級の免許取得。


12月26日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「1月26日にジェームズ・リーの為にサプライズなパーティーを企画、テッド・ウォン氏と一緒に手伝ってほしい」


1968

民國57年、昭和43年

●葉問75歳の折、詠春門の悲願であった「詠春聯誼會(後の詠春體育會)」が設立。

●染野行雄氏がショーブラザーズ所属のため香港に渡港。

●ミト・ウエハラ氏の紹介でUCLAのスーパースターであるルー・アルシンドが入門。

●この年の夏にルー・アルシンドがカトリック教からスンニ派イスラム教に改宗し、名前をカリーム・アブドゥル・ジャバーと改名したが、1971までの非公開としていた。

 

11日 元旦よりトレーニング漬け。

 

15 11:00 チャック・ノリスに個人指導をする。2:15散髪の予約

 

15日 15日にブルース・リーとArthur Kennard Associates社との間で1年間のエージェント契約。

 

167日 テッド・ウォンとトレーニング

 

17日 自身のダイアリーに「Stop by China town Gym」(L.A.道場)と記載あり。

これ以降、ブルースが道場経営に関わることが激減し、自宅などでの個人指導にシフトしていきます。

 

1月9日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「ジェームズは26日のパーティーには私が来る事をまだ知らないので計画を進めてほしい」

 

119日 チャック・ノリスに個人指導をする。

 

1月20日 ロンドンでロマン・ポランスキーとシャロン・テートが挙式。


1月25日 マイク・ストーンがブルース・リーへの個人教授の予約を取る。以降、毎週の個人教授を願いで実力を上げていく。


1月26日 レストランでジェームズ・リーのサプライズ・パーティーを開催。

 

1月30日 ハーブ・ジャクソン氏がL.A.道場に入門。


2月2日 香港の「明報」にジークンドーを創始したブルースの近況が写真付の記事となって報道される。


2 月6日 車を修理。


2月29日 ブルース・リーは個人教授へのレッスン料を記載した名刺をジェイ・セブリングに預ける。


3月18日 スターリング・シリファントによるブルース・リーへの個人教授のオファー。

 

3月20日 スターリング・シリファントとジョー・ハイアムズがブルース・リーとコロンビアピクチャーズにて初対面。

 

3月24日 ジョー・ルイスとボブ・ウォールと18時に夕食。

 

3月25日 ジョー・ハイアムズ邸にてジョー・ハイアムズとジェームス・コバーンへの個人教授が初めて行われた。

 

4月1日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「怪我から回復中で大丈夫、トレーニングを再開するつもりだ。」「雑誌BLACK BELT 誌のシューティングといくつかの出張について」

 

4月4日 マーティン・アーサー・キング・ジュニアがメンフィスで遊説中に暗殺。

 

4月6日 サンフランシスコ市民講堂(San Francisco Civic Auditorium)にて「National Chinese Gung Fu Exhibition」のイベントに招待される。(詳細不明)


4月9日 20時に新居を散策。

 

4月10日 第40回アカデミー賞授賞式がキング牧師暗殺事件の影響で2日遅れでサンタモニカで開催される、スターリング・シリファントが「夜の大走査線」で脚色賞を受賞。

4月10日 午前中ジョー・ハイアムズとスターリング・シリファントとトレーニング。午後からミト氏とテッド・ウォン氏参加のトレーニング。

 

4月17日 発行「香港電視」2ページ記事掲載 「青蜂俠」的助手嘉杜 李小龍發揚中國武術 創「捷拳道」揚威海外

 

623 テコンドーの達人ジューン・リー主催のワシントンDC国際空手選手権 (National KARATE Championships 1968)にて模範演武、会場はワシントン hilton

 

●Black BeltJune 1968に特集記事「FORUM : International Convention of the Martial Arts

BLACK BELT」誌が主催したマーシャルアーツフォーラム(各武道・格闘技流派の代表者対話会)にジークンドー代表として出席。

 

6月25日〜 映画「サイレンサー破壊部隊 Wrecking Crew」《破坏部隊》でシャロン・テート等にアクション指導。またブルース・リーはMike Stone(double for Dean Martin), Ed Parker, Bill Ryusaki, Chuck Norris, David Chow, Peter Chin をスタントとして指導。

 

71〜5日 映画「サイレンサー破壊部隊 Wrecking Crew」《破坏部隊》でシャロン・テートやナンシー・クアン等にアクション指導。

 

75日 Los Angeles Ambassador Hotelにて”ICMA1968 International Convention of the Martial Artsに出席。The Black Belt Hall Of Fame任命式に立ち会う(73~7日)

 

83~4 ロングビーチの国際空手トーナメント”International Karate Championship 1968”で演武

 

86 MGM映画 フィリップ・マーロウ探偵シリーズ作の「かわいい女(Marlowe)」にゲスト出演(公開は翌年)。

主演/ジェームズ・ガーナー。

同作の脚本家スターリング・シリファントのバックアップによるもの。レイモンド・チャンドラーの原作には無いキャラクターで“悪役ブルース・リー”が、フィリップ・マーロウの事務所を破壊するギャングのボディーガードのウィンスロウ・ウォンを演じた。

 

●共演者のシャロン・ファレル (Sharon Farrell) と愛人関係になっていく。

 

8月11日 ビバリーヒルズの書店で空手や柔道の書籍を購入。

 

8月27日 スティーブ・マックイーンに住宅地探しを相談。その後マックイーンのマネージャーが物件を探しを手伝ってくれた。

 

9月9日 住宅ローンを申請。


9月13日 メキシコのドロレスイダルゴ、グアナファトにて「ワー・オブ・ウォリアー」にエド・パーカーらとゲスト出演。

リマラマ・アソシエーションのグランドマスター・リチャード・ヌーニェス氏らと親交を深める。

 

●この頃、数人の有力な後援者達とマーシャルアーツの映画やテレビシリーズ専門のプロダクション設立の準備に入る。(残念ながらこのプロジェクトは実現せず)

 

101 ロサンゼルスの高級住宅街として有名なビバリーヒルズ。そのすぐ西側の静閑な高級住宅街ベルエア(Bel-Air)ロスコメア・ロード2551番地へ引っ越し。

2551 Roscomare, Bel Air CA 90077 and is just off famous Mulholland Drive

 

●この頃、赤のポルシェを購入し、マックィーンとベルエア地区のマルホランド・ドライブでよく競走して遊んでいた。12月7日に購入説もあり。

 

10月12〜27日 メキシコシティで開催されたメキシコオリンピックに、バスケット競技にルー・アルシンドがアパルトヘイト問題に抗議してボイコットをする。

 

1020日 シアトルのSteve Armstrongs Isshinryu Karateより”Northwest Open Invitational Karate Tournamentに招待されるが出場をキャンセルする。

 

11月1日 ジェームス・コバーン邸にてブルース・リーによる最初の個人教授が始まる。

 

11月7日 L.A.道場にBob Bremaer氏が入門。

 

1112 ブルース・リー、TV「Blondieブロンディ」最終話「Pick On A Bully Your Own Size」に空手道場師範としてゲスト出演。

 

1115 ブルース・リー、TV「ヒア・カム・ザ・ブライズ」《新娘駕到》にゲスト出演。


11月27日 スタジオシティにあるHound'sToothにてプリントパンツを購入。

 

12月15日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。

 

1227日 樂蒂(Betty Loh 1937724日-19681227日)死去。キャセイのトップ女優で古典美人として愛された31歳。


1969

民國58年、昭和44年

●この頃、オークランドのジェームズ・リー宅へ向かう途中、愛車のポルシェにて交通事故。背中と腰を痛め、以後リハビリに励む。(時期詳細不明)

ジューン・リー氏に手紙を投函。「先週、ポルシェで事故をおこした、でもたいした事はない。誰かがアクセルを踏んでいるようだった」「チャック・ノリスと提携して学校を開いているボブ・ウォール氏が300ポンドの重いバッグをくれました」「ルイス・デルガド氏が2回通ってきたが忙しくて相手が出来なかった」

 

1月4日 ジェームズ・コバーン氏と15時に打合せ。

 

15日 ブルース・リーとArthur Kennard Associates社との間で3年間のエージェント契約。

 

16   同日付けにてオーストラリアに住む詠春拳の友人ウィリアム・チェン(張卓慶)宛に詠春拳にこだわらない、ストリートファイトで効果を発揮できるジークンドーを創設したと自身の近況を知らせる内容の手紙を書く。

 

19日 BlondiePick On A Bully Your Own SizeTV放送

 

●究極の目標 

「私、ブルース・リーは、アメリカで最初の、最も出演料の高い東洋人スーパースターになるだろう。そして私は、一人の俳優として可能な限り最高のクオリティーで、最もエキサイティングな演技と演出をする。1970年から私は世界的名誉を手中におさめ、1980年には1000万ドルの財産を手にするだろう。私は、自分の好きなように生活し、心の調和と幸福を手にするだろう。」

ブルース・リー1969年1月

 

1月20日 同日付けにてオーストラリア在住のウィリアム・チェン宛に手紙を書く。

 

1月27日 スターリング・シリファント氏とジェームズ・コバーン氏と12時30分に昼食。

 

2月5日 スラーリング・シリファント氏と昼食。 19時30分ハーブ・ジャクソン氏とJKDトレーニング

 

2月11日 ポルシェをピックアップと手帳に記述あり。

ジェームズ・コバーンやスティーブ・マックイーンらと自宅でトレーニング。

 

2月12日 ダニー・イノサント氏と13時30分にBlack Belt編集部に出向く。

 

2月14日 ジェームズ・コバーン氏と「サイレント・フルート」の打合せをしながら昼食。

 

2月18日 同日付けにてオーストラリア在住のウィリアム・チェン宛に手紙を書く。

 

2月22日 「七人の侍」をピーター・チン氏と鑑賞後に夕食。

 

2月26日 発行「香港電視」2ページ掲載記事 李小龍從影經過

 

Black BeltFebruary 1969に特集記事「Budo Goes Hollywood

227日アクション指導を務めた映画『サイレンサー破壊部隊』香港公開(〜0312)同年度興行収益第66(1969)

 

●「華麗なる週末」The Reivers 撮影中のスティーブ・マックイーンの元に出向き、個人教授をするためテネシー州へ出向く。この時道中の機内で知り合ったマックイーンのスタントマンをキックミット練習で蹴り飛ばす。また、出演中の愛人であったシャロン・ファレルとも交遊する。

 

●ノラ・ミャオがシンガポール政府主催の慈善のど自慢大会に四日間出演。

 

4月1日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「4月14日にテネシー州に2週間ほど行く予定」「5月に母が香港から来る為、ニューヨークでの出張は数日の滞在予定」

 

4月5日 Pickwick Book Shopにて13ドル97セントの書籍を購入。

 

4月7日 ニューヨークにて全米プロバスケットボールの1969年度のドラフトが開催され、UCLAのルー・アルシンドがラウンド1でミルウォーキー・バックスに指名された。 以降、ブルース・リーによるウェイトトレーニング指導で体重を増加させ、肉体改造を行っていく。

 

49日 アクション場面のないゲスト出演をしたTVドラマ『略奪された百人の花嫁 Here Come The Brides』“Marriage Chinese Style”放映

 

416 同月24日まで『春の雨の中で』の撮影にテネシー州のグレート・スモーキー・マウンテンに入る…武術指導を担当。大柄なアメリカ人のスタントマンに挑発を受けるが、サイドキックで吹っ飛ばしたとのこと。女優イングリット・バーグマンと親交を持つ。

 

419 サンタモニカにて長女シャノン誕生。中国名・李香凝。

 

511 ワシントンDC国際空手選手権大会(National KARATE Chanpionship 1969)に著名ゲストとして招かれる。

 

5月19日 10時30分にJoe Hyamsと打合せ。

 

5月21日 11時にルイス・デルガド氏と打合せ。

 

5月27日 スターリング・シリファント氏・ジェームズ・コバーン氏と昼食。


5月30日 母親と弟のロバート・リーが米国入り。(夏の終わり頃まで滞在)

 

6月8日 自宅にてジェームズ・コバーン氏・テッド・ウォン氏・ハーブ・ジャクソン氏・カリーム・アブドゥル・ジャバー氏とトレーニング。

 

6月17日 ロバート・ベイカー氏とトレーニング。

 

625日  ワシントン在住のジューン・リー宛に近況報告の手紙を書く。「今日はミトと食事をしながらあなたの著書について議論をした」

 

6月26日 ジェームズ・コバーン氏と打ち合わせ後、トレーニング。

 

7月2日 ルイス・デルガド氏とGolden Palaceにて昼食。

 

7月7日 ルイス・デルガド邸に家族で招かれる。

 

7月9日 BLACK BELT」誌の取材、ダニー・イノサント氏・テッド・ウォン氏らとシューティングセッションを行う。

 

8月1日 BLACK BELT」誌の取材、シューティングセッションを行う。

 

8月2/3日 ロングビーチの国際空手トーナメント”International Karate Championship 1969

 

89 ICMA1969会場にてThe Black Belt Banquet 7:00 PM   The Black Belt Hall of Fameが発表。Sam Allred (Kajukenbo) Jhoon Rhee Institute of Tae Kwon Doらが殿堂入り

 

89 友人シャロン・テート、ジェイ・セーブリングの惨殺死体が発見される…The Manson Familyによって殺害。ブルースはこの事件に関して後日警察から事情聴取を受けた。

 

813日 11時、シャロン・テートの告別式にJoe Hyamsと参列。NBC News Archivesにブルースの貴重なカラー映像が残っている。(この映像は大阪在住の研究家の山口氏の尽力により発見)

14時30分にジェイ・セーブリングの葬儀にも参列。

テート殺害実行犯の主犯スーザン・アトキンスは、1971年に死刑判決が下ったが、カリフォルニア州の死刑一時撤廃に伴い、狂信的カルト指導者チャールズ・マンソンらとともに終身刑に減刑され、2009924日に同州の刑務所で脳腫瘍のため獄中死。マンソンはその後も服役したが、20171119日に死亡。

 

8月17日 13時にダニー・イノサント氏・ラリー・ハートセル氏が自宅を訪問。

 

この頃、Mitoshi Uyeharaが新しい空手雑誌「Karate illustrated」を9月号として創刊する。

「Black Belt Magazine」の姉妹誌として誕生し、急成長する空手のスポーツ面に特化した焦点を提供。Black Belt」 が伝統的な武道と護身術を深く掘り下げていたのに対し、「Karate Illustrated」 は、トーナメント競技とキックボクシングを含むフルコンタクトとイベントの両方を網羅し、スポーツ空手の進化する領域にスポットライトを当てました。2000年廃刊までの31年間で289号を発刊した。

 

9月9日 ジェームズ・コバーン氏と打合せ後、トレーニング。

 

916  映画『かわいい女 Marlowe』香港公開(〜0930)同年度興行収益第369

 

9月25日 12時30分ビバリーヒルズホテルにてジェームズ・コバーン氏と昼食後に打合せ。

 

10月5日 ダニー・イノサント氏、ハーブ・ジャクソン氏、シェリー・バートン氏が自宅を訪問。

 

10月6日 12時にミト・ウエハラ氏、ルイス・デルガド氏と昼食。

 

10月15日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「背中の怪我と治療」について。


10月19日 デッド・ウォンとカリーナ・ウォンの結婚披露宴にイノサント夫妻とともに出席。

 

10月20日 16発L.A.からダラスへ移動。

 

1021日 ダラスにて映画『かわいい女 Marlowe』プロモーション。 15時よりEAST MEETS WEST Third Floorにてデモンストレーションを行う。

19時発Atlantaへ移動。

 

1022日 映画『かわいい女 Marlowe』全米公開

10月22日 11時 WPLO ラジオ取材、12時 アトランタジャーナル紙取材、3 時 WSBラジオ取材、5時 Ch3 TV取材

 

1023日 マイアミ経由 ノースカロライナ州シャーロットにて映画『かわいい女 Marlowe』プロモーション。CBS/NBC/ABCのインタビューを受ける。地元のローカルTV番組でもジークンドーを実演。

 

10月24日 シャーロットからワシントンへ移動。25日、26日とワシントンに滞在。

 

10月25または26日 メリーランド州のメリーランド大学にてジューン・リー、オーティス・フーパーらとテコンドーのデモンストレーションに立ち会う。

 

1027日 ワシントンからボストンへ移動。ボストンで同作のプロモーション。Paramount Showに出演。

 

1028日 ボストンからデトロイトへ移動。デトロイトで同作のプロモーション。WBZ-TV New England Today Showの取材。

WNAC-TV Ed Miller Afternoon Movie Showに出演。

 

1029日 デトロイトからシンシナティへ移動。シンシナティで同作のプロモーション。NBC Bob Braun Showに出演。

 

10月30日 シンシナティからサンフランシスコへ移動。

 

10月31日 サンフランシスコからL.A.に戻る。

 

11月26日 20時にディナーパーティーを行う。

 

12月7日 ジェームズ・リー氏と昼食。

 

12月20日 ジェームズ・コバーン氏と13時にサイレント・フルートの打合せ。

 

12月27日 二台目007のジョージ・レイゼンビー主演「女王陛下の007 On Her Majesty's Secret Service」日本公開。