●1月 3ヶ所すべてのジュンファン・グンフー・インスティテュートを閉鎖してしまい、グループによるレッスンは2度と行うことはありませんでした。
以後、師祖であるブルース・リーに選ばれた非常に少ない生徒のみへ、プライベート・レッスンによるジークンドーのみの教伝がおこなわれます。
●「燃えよドラゴン」の制作者フレッド・ワイントローブと「The Warrior」の企画を進める。
●イギリスによる植民地統治下の香港で、映画会社ショウ・ブラザーズの製作本部長を務めていたレイモンド・チョウ(鄒文懐 Raymond Chow)が、レナード・ホー(何冠昌/Leonald K.C.Ho)やショウ・ブラザースのスターだったジミー・ウォングを引き抜き、新しく製作会社設立を決意。九龍のハンマーヒルロードにあったキャセイ映画スタジオ「MP&GI(國際電影懋業公司)」を買い上げ、ここをゴールデン・ハーベスト・スタジオ(スタジオの正式社名はゴールデン・スタジオ・リミテッド 嘉禾電影有限公司)とした。
電懋は配給と興行部門だけを残し、長年維持してきたスタジオ・システムの終わりを告げる。
嘉禾電影の第一作は時代劇の『鬼怒川(The Angry River)』。続いて、ジミー・ウォングの『片腕ドラゴン』を製作し大ヒットを記録。香港映画界の新興勢力として注目される。
「鬼怒川」「刀不留人」「獨臂刀大戰盲侠」「侠義雙雄」「天龍八將」「奪命金劍」の6本を発表。
1月11日 詠春拳時代の兄弟子であった黄淳樑 Shun-Leung 宛に手紙を投函。
1月27日 春節
●2月、ジューン・リーと共にドミニカ共和国の首都サンタドミンゴ、サンティアゴ州、サントドミニカパラロスで行われるテコンドーの昇段試験及びセレモニーに招待される。
2月5日 首都サントドミンゴのLas Americas空港に到着。熱烈な歓迎を受ける。
2月7日∼8日 ジューン・リーの弟子である地元のエリス・ペレス氏が同行し劇場、テレビ局、スタジオといった場所で幾つか演武を披露する(サンデーナイトショー"Encuentro"と呼ばれる地方のテレビ番組中でのデモンストレーション) “ Malta Morena Presenta Gran Exhibicion de KARATE”
2月9日 帰路、プエルトリコに入国、ショッピングを楽しむ。ここでも当時ヒッピーアイテムだったカフタンを購入。
2月20~27日 スイスのグシュタード地方にてロマン・ポランスキーにジークンドーの指導のため滞在、高級ホテルのグシュタード・パレスホテル”The Gstaad Palace ”に宿泊。
2月20日 リンダ夫人への手紙「グスタードはとても裕福な人々のリゾート地です。今日はローマンとスキーに行った」
2月23日 リンダ夫人への手紙「うんざりしている、家族と一緒にいたいと思う。ロンドンに立ち寄り、ウーガンに会うつもりだ」
2月26日 リンダ夫人への手紙「インフルエンザに感染して弱っています、医者は昨夜幾つかの薬を処方した」
2月27日 リンダ夫人への手紙「皆スキーをして料理人のリックと2人きり、明日ロンドンに向けて出発し数日間滞在してブーツを買い、ウーガンに会いたいと思います。宿泊はローマンの別荘です。3月3日には戻る予定です」
28日以降、帰路ロンドンのロマン・ポオランスキー別荘にも滞在。
3月6日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「ロマン・ポランスキーへのプライベート・レッスンのため、スイスとロンドンに行って来た」
3月11日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「月曜、水曜、金曜の16時から18時までジェームズ・コバーン氏とスターリング・シリファント氏とサイレント・フルートの打ち合わせをしている」4月1日に香港に向けて出発の予定。
3月17日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。
4月4日 香港に里帰り。母のアメリカ永住手続のためブランドンと香港へ。熱烈な歓迎を受ける。
4月7日 ブランドンを連れて、テレビ番組『歓楽今宵』に出演。1インチパンチやサイドキックによる試し割等の演武を披露、視聴者の大好評を得る。The Chopsticks 筷子姊妹花 サンドラ・ラン Sandra Lang 仙杜拉とアミナ Amina 亞美娜と写真撮影。
●母グレース、ブランドン、ベティ・ライ、シルビア・ライらと共に龍華酒店のレストランで食事。
●「迷人的愛情 The Fascination Love」の撮影中の張清を表敬訪問する。沙田Yucca de Lac 雍雅山房にて会食。
●九龍新樂酒家樓頭にて香港の南北武林の名師と会食。
●Siberian Fur Companyにて虎の毛皮を購入。(豹の毛皮も購入との情報もあり)
●4月 千葉真一がジャパンアクションクラブを設立。
4月9日 ネイザンロードの自宅で雑誌「Auto Age」の取材を受ける。
4月10日 胡楓さんとユニコーンさんらとテレビ番組『金玉満堂』に出演。David Lo 盧大偉さんと高亮さん司会。Sandra Lang仙杜拉とのスナップ写真が残されている。
4月16日 ブランドンと共にアメリカへ帰国。
4月21日 発行「香港電視」2ページ掲載記事 「李小龍名不虛傳」
4月22日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「プレゼントに感謝、ジェームズ・コバーンと共有したいので追加の要求」
4月25日 KARATE Star Attractionにテコンドーの友人であるジューン・リーとともに参加。
4月26日 アメリカのNational Karate Schoolsの創始者であり、Jhoone Rheeの跆拳道インストラクターでもあったJohn Worleyとのフォト・セッション。
4 月30日 ワーナーブラザーズの重役であったフレッド・ワイントローブ氏のもとに、ニューヨークのブルックリン出身のエド・スピールマンが「燃えよカンフー」の企画をプレゼンテーションして企画を了承。
以降、フレッドは主役のクワイ・チャン・ケインの役を探し始め、友人のサイ・ワイントローブからブルース・リーを推薦される。ブルースも脚本に好印象であったが、ワーナーの上級役員の人種差別感情により没企画となってしまった。
5月8日 鄒文懐と何冠昌と梁風が共同で國泰機構(香港)有限公司より映画製作部門を借り上げ、ゴールデン・ハーベスト「嘉禾電影(香港)有限公司」を設立。
5月24日 ワシントンDC国際空手選手権大会に著名ゲストとして招かれる、トーナメント優勝者はPat Worley氏。
5月27日 ジューン・リー氏に手紙を投函。「Black Belt誌の最新号からアシスタント・インストラクターを募集している記事をみつけたので、香港出身のウー・ガンを薦めます。彼は現在ロンドンに住んでいます」
5月28日 ジューン・リー氏に手紙を投函。「5ランクの証明書を同封します、また最後のスクリプト会合が終了し、来週にスターリング・シリファント氏がワシントンに行きます。ジェームズ・コバーンと8月にローマで会う予定なのでドミニカ共和国には7月中旬が大丈夫だ」「イギリスからウー・ガンをそちらに連れて行く為の手筈を教えてほしい」
6月16日 発行「香港電視」1ページ掲載記事「李小龍身手令人讚歎」
6月17日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「ジークンドーへの道を邁進するためドラッグを絶つ」
7月 菊池武夫と妻の稲葉賀恵がレディースウェア「BIGI」株式会社ビギを大楠裕二とともに設立。
7月1日 ノラ・ミャオがオーディションに合格し、ゴールデン・ハーベストに所属。
7月 母グレース・リーが米国に移住。以降、ベルエアのブルース宅でロバート・リーと共に新生活を送る。
7月 早川書房の「ミステリマガジン9月号」石上佐登志による映画コラム「かわいい女」の誌面でブルース・リーが紹介される。「怪鳥の如き奇声」と怪鳥音が最初に記述された文面となる。
7月13日 自宅の庭にて家族の撮影を行う。撮影は夫人のLinda Palmaer
8月13日 トレーニング中に仙骨の神経に損傷を受け、数ヶ月間リハビリ生活を送る。ウォーム・アップなしでいきなり“グッド・モーニング・エクササイズ”という背筋を鍛えるトレーニングをしたため、第四仙骨の神経を損傷し、約半年間の治療を余儀なくされてしまいます。
しかもその時の医師からは、一生武術をすることは不可能であると宣告されてしまったとのこと。
8月16日 アメリカのスポーツ紙「Sports Week」がブルース・リー特集記事掲載。
8月28日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「背中の怪我が3ヶ月以上になり、やはり手術を受けなければならないのか心配」
9月8日 エド・スピールマン氏の「燃えよカンフー」「The way of the Tiger, The Sign of the Dragon 」初稿が提出。
9月10日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「背中の怪我からの治癒を支援への感謝」
9月23日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「住宅ローンの返済の悩み」
10月8日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「サイレント・フルートの3000ページに及ぶ脚本は今6巻目に、ほぼ完成に近づいている」
10月19日 ジェームズ・コバーンとスターリング・シリファンと3人共同で「The Silent Flute」の脚本を仕上げた。
「Black Belt」誌October 1970に特集記事「The Making of “The Silent Flute”」
12月8日 映画『かわいい女』日本公開
1月22日 羅維監督作「天龍八將」The Invincible Eight 嘉禾有限公司 香港公開。茅瑛(アンジェラ・マオ)と苗可秀(ノラ・ミャオ)の共演作でありデビュー作。
武術指導 韓英傑 洪金寶
1月27日 春節
1月29日『サイレントフルート』のロケハンへとジェームス・コバーンと共にインドへ出発する
8時45分発TWA904便Los Angeles - New York、20時30分Air India110便New York - London
1月30日 8時London着、ワーナーと打合せ。
2月1日 New Delhy着
ニューヨーク〜ロンドン〜モスクワ経由でニューデリーへ。ボンベイやカシミールやベンガルなどをリサーチ。2月11日まで。
2月9日 カリフォルニア州のサンフェルナンドにて大地震発生。
2月11日 13時Air India 107便 Bombay - London - New York着
17時45分TWA 1便 New York - Los Angeles 20時45分着
2月5日 香港にて勝新太郎とゴールデン・ハーベストに移籍した王羽の共演作「獨臂刀大戰盲俠」(邦題:新座頭市 破れ!唐人剣)公開。
2月12日 嘉禾と勝プロとの合弁会社「嘉勝電影公司」が設立。(以降、1本の作品も製作せずに消滅。)
嘉禾と勝プロの提携がまとまり、合弁会社「勝禾公司」設立。勝新太郎が嘉禾を訪れる。
当時のスポーツ紙によれば「新座頭市 破れ! 唐人剣 」公開前にはテレビで勝とジミー・ウォングが映画そのままの扮装で立ち回りをやってみせ、決着は映画で、といった特番をやったほど宣伝に力が入っていたようです。
また、日本と香港では決着のつけかたが違っていたことはよく知られることです。
そしてこの映画をきっかけに嘉禾電影と勝プロが提携して嘉勝電影公司が成立。発表された内容は年6本の合作映画製作、所属女優に当時の実兄若山富三郎の愛人であった安田道代、そして監督やスタッフの交流といったもので、勝プロが日本映画界斜陽の時代に東南アジア市場を見据えてこうした提携を進めたことは理解できなくもないですが、本気で年6本も香港とやろうとしていたのかは疑問です。実際はどうあれ、提携内容はそれくらいぶち上げとこうといったくらいのものだったかもしれません。しかし、後にGH側とすればこうした提携をしたのだから、「ドラゴン怒りの鉄拳」で今度はブルース・リーと勝を共演させようと考えたのはごく自然な成り行きだったのでしょう。
2月16日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「インドでのロケハンにて慢性的な腰痛と時差ぼけに苦しんだ」「9日のサンフェルナンドのシルマー大地震への心配」
2月23日 米国TVドラマ『ロングストリート』90分パイロット版放映
2月28日 嘉禾影業の王羽と苗可秀がシンガポールを訪問。ベンジャミン・シーレス大統領夫妻と対面。
3月3日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「ジュリー・アンドリュースの監督兼夫であるブレイク・エドワーズのTVシリーズにかかわるかもしれない」
3月8日 「世紀の一戦」モハメド・アリが敗北。ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで開催されたジョー・フレージャーとの統一ヘビー級に挑戦して、15回判定負け。初の敗北にブルース・リーも大変驚いたという。
3月23日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「インドでのロケハンについてと、プロジェクトの今後の展開への不満」
3月26日 フレッド・ワイントローブはブルース・リー主演の西部劇の「ケルシー」初稿をワーナー・ブラザーズに提出。
3月28日 フレッド・ワイントローブ「ケルシー」第2稿を提出するが後日不採用となった。
3月31日 1971年9月号の「Black Belt」誌の記事用にヴァン・ウィリアムス氏のスタント・ダブルである、ベニー・E・ ドビンス氏(Bennie E. Dobbins)とデモンストレーションを行う
撮影はLinda Palmaer女史(Ted Ashley夫人)
4月10日 ブルース・リーとレイモンド・チョウ氏が電話会談。正式契約の好感触を得る。
4月20日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「今夏に香港で映画の撮影を行うオファーが来ている」
4月30日 葉榮祖監督作「刀不留人」The Blade Spares None 嘉禾有限公司 香港公開。
苗可秀(ノラ・ミャオ)主演。武術指導 韓英傑 洪金寶
5月12日 黃楓監督作「鬼怒川」香港公開。茅瑛(アンジェラ・マオ)主演作。
5月25日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「テッド・ウォンとジェームズ・リーと三人で詠春拳のジェームズの本のシューティングを行った」「6月22日にロングストリートの撮影予定」
6月 振藩國術館オークランドにて「Introduction to JKD」小冊子を発行。
6月10日 Los Angelesにてゴールデン・ハーベスト社の劉亮華が代表として提案した内容に興味を示す。
6月14日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「ロバート・ベイカー氏を香港に招待する為の選択肢について、配役のキャスティングによる全費用の正当化など」
6月16日 Blue Ribbon Sports店にて16ドル70セントの買い物をする。
6月22日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「7月2日から4日頃に知り合いの女性の友人のテレサを含めて集まろう」
6月24日 TVドラマ「ロングストリート」撮影(7月1日まで)。テレビ放映後は批評家の絶賛を受け、主役ジェームス・フランシスカスよりもファンレターが多く届いた。
6月28日 ブルース・リー、ゴールデン・ハーベスト社と2作品で正式契約。ブルース・リー香港映画復帰第1作が「ドラゴン危機一発」に決定。この時点では「ドラゴン危機一発」はすでに製作準備段階に進んでおり、主役はジェームズ・ティエンとなっていた。
7月1日「ロングストリート」第1話The Way of Intercepting Fist、撮影終了。
7月9日 レオ・フォン宛に手紙と投函。「先週はロングストリートの撮影で急がしく、これからの4ヶ月は香港で2本の映画を契約した。ワシントンDCへの出張はキャンセルしなければならない」
7月12日 「ドラゴン危機一発」ロケのためタイへ出発。
23時 Los-Angeles PAN-AM Air便にてホノルル経由東京経由バンコクへ。
7月13日 バンコックのDon Muang空港に到着。(12日という報道もあり。)劉亮華、韓英傑らが出迎え。
当初来港予定だった香港啓徳空港ではマスコミがブルース・リーの到着を待つが現れないので翌日の新聞でバッシングをしたとのこと。(噂)
バンコックではタイ・ホテルに宿泊し、非常階段で練習をしていたというエピソードも残っています。
7月15日 発行「香港電視」2ページ掲載記事「李小龍回港拍片」
7月16日 新明日報 「唐山大兄」の監督はマネージャーの何冠昌。
『唐山大兄』の先遣隊はすでにタイへ向かい出発した。メンバーは「嘉禾」の製作幹部である劉亮華と2名の副監督である。『唐山大兄』の主力部隊も今後半月以内に出発する予定で、主要キャストは李小龍と依依である。
7月17日 星洲日報 『唐山大兄』の企画が立ち上がった当初は、『五雷轟頂』の羅織(ロウ・チー)が監督を務める予定でした。その時点では、長期間撮影されていた『五雷轟頂』も、ようやく完成に近づき、羅織は残りの時間を利用して、『五雷轟頂』の吹き替えと編集作業に取り組んでいました。『唐山大兄』の撮影開始日までには、『五雷轟頂』は全て完成し、安心してタイに向かう予定だったのです。しかし、数日後に別の案が伝わってきました。それは、『唐山大兄』は羅織ではなく、宋存壽(ソン・ツンショウ)が監督を務めるというものでした。昨日、製作担当の劉亮華と副監督など数名が一足先にタイに向かいました。この様子からも、『唐山大兄』の撮影開始日は間近であると見られていますが何冠昌自身が認めたことで、ようやく『唐山大兄』が彼の手によって監督されることを信じることができました。
7月17日 レイモンド・チョウ氏バンコクに合流。各俳優たちも香港から合流後、ディナーパーティー が Dusit Tai Hotelにて開催。
7月18日 タイのバンコク北東200キロにあるパクチョン(pakchong)に移動。『ドラゴン危機一発』の撮影開始。レイモンド・チョウ氏は香港へ。
●パクチョンではニュー・ワンチャイ・ホテルに宿泊。ホテルのロビーで殺陣の稽古を重ねていた。
製氷工場やパクチョン駅の近くの売春宿、ホテルの近くの小川でのロケーションを行う。。
有名なパクチョンでのラストシーンの闘いは当時は火葬場でしたが、撮影後に寺院に。
7月22日 呉家驤(ウー・チャーシャン)が監督代理として先行。しかしながら直ぐにブルース・リーと殺陣で意見が破れた。
7月22日 ワーナー・ブラザーズとABCテレビが「燃えよカンフー」テレビ放映契約を発表。
7月24日 パクチョンのニューワンチャイホテルからリンダ夫人への手紙「蚊やゴキブリは至る所にいます。私が薄いガラスコップを洗っていた時右手を深く切り10針も縫う事になった。ショーブラザーズ社があらゆる手段で私を得るつもりのようだ。台風の影響でレイモンド・チョウ氏はまだこちらに到着していません」
7月28日 ローウェイ監督が到着。
7月 ニューワンチャイホテルからリンダ夫人への手紙「別の監督が丁度今の監督の後を引き注ぐ為に到着しました。あなたも香港に来ることは大丈夫ですか? 私も香港には行っていませんが、香港での報道は凄まじいものでした。バンコクの食べ物がひどく、特にパクチョンには牛肉もなく鶏肉と豚肉もほとんどありません、ビタミン剤を持ってきてよかったです」
7月29日 マリア・イーの誕生日会をNew Wanchai Hotelのレストランで開催。
8月 ニューワンチャイホテルからリンダ夫人への手紙「パクチョンに到着して15日が経ちましたがもう何年も経過しているみたいだ、機械の運転の音や氷の切断の音など本当に酷い状況です。新しい監督は耐えがたいほど優越感を持った人です。
8月3日 タイのパクチョンからロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「割れたグラスで左手を切った」「129パウンドも体重が落ちた」
8月 ニューワンチャイホテルからリンダ夫人への手紙「電話で話せて安心出来ました、ここに友人がいます。彼の名前はTavatachi kosichroenと言います。彼のためにカメラアートのパンフレットを贈ってもらいたい」「新しい監督はロマンポランスキーほどではないがまずまずです。」
8月8日 パラマウント社からの電報で「ロングストリート」追加撮影のオファー、「タイガー・フォース」の企画も進めているとの知らせ。
8 月 ニューワンチャイホテルからリンダ夫人への手紙「自宅の支払いで3000ドルは必要だと思う。9月になって香港からアメリカに戻るとパラマウントから幾らかのお金を稼ぐ事が出来る」
「パラマウント社から電報を受け取った、9月5日から30日までの往復ファーストクラスのチケットを手配。ブルースの為に台本を準備しますと」「今月の17日にはバンコクへ戻る予定です」
8月11日 羅維監督作「鬼流星」香港公開。苗可秀(ノラ・ミャオ)主演作。
8月 ニューワンチャイホテルからリンダ夫人への手紙「明日と次の4日間は重要な戦いのシーンの撮影です。その後の8月15日以降にタイのホテルに戻ります。
8月 ニューワンチャイホテルからリンダ夫人への手紙「今日は3度もセット入りした。パラマウントからはその後連絡はないがスターリングを信用して待つ。バンコクのタイホテルにはもう少しこちらでの撮影が必要だ。 ゴールデン・ハーベスト社は凄く動揺しているようだ、ショーブラザーズが私に電話をかけてきて契約書を送りつけようとしているからです]
8月16日 新明日報 本紙記者が得た独自の内幕によれば、李小龍はタイで「唐山大兄」を撮影している際、友人と映画の話をしていた時に、「嘉禾のためにこの映画を撮っているのは、映画界で自分の道を切り開くための準備だ」と述べたという。後に李小龍は笑いながら、「嘉禾で2本の映画を撮った後は、 香港映画界の実情を十分に理解できる。今後、自分で会社を設立して映画を作る時には、サンフランシスコから来た観光客だと思われて無茶なことはされないだろう!」と語った。
8月20日 バンコクへ移動。ノラ・ミャオも合流。以降、バンコクで追加撮影。
8月22日 タイホテルからリンダ夫人への手紙「バンコクでは少し雨が降っています、撮影スケジュールに支障がない事を願う。後2週間で自宅に戻れる、9月6日の846便で午前10時45分LAに到着予定です。夜間撮影をしてきました、18時30分から朝の4時迄でした。
8月23日 バンコクからロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「クランクアップが近づいている」「パラマウントからロングストリートの追加のオファー」
8月23日 タイホテルからリンダ夫人への手紙「私は地獄の2日間でした。滑ったマットレス跳躍をした時着地で足首を酷く捻挫してしまい、医者に診察をしてもらうため車で2時間も走る羽目に、おかげで風邪をひいてしまいました。スケジュールに問題がなければ香港に戻って1日だけ追加撮影をし、6日に戻って来る予定です」
8月 タイホテルからリンダ夫人への手紙「今夜撮影予定が雨のため中止に、明日の朝7時に撮影するよう変更しました。実はロングストリートの撮影ではタネンバウム氏に前払いをお願いするつもりです」
Black Belt誌September 1971に特集記事「What is Jeet Kune Do?」
9月3日 午後3時50分『ドラゴン危機一発』ロケよりスタッフ・キャストらと香港へ戻る。美麗華大酒店機場餐廳にて映画製作等についての記者会見が開かれブルース・リーは約20分のインタヴューを受ける
ロー・ウェイ監督との記者会見の模様がテレビ放映される Miramar Hotel, Kimberley Rd
さらに同晩 香港TV『エンジョイ・トゥナイ・ユアセルフ』(「歡樂今宵」Hong Kong TVB無線電視)に同じ服装のまま出演
ホテル内の金源館レストランで慰労会が開かれる。
9月4日 上水市にて屋外追加撮影を開始。沙田の龍華酒店に宿泊の噂。
光藝製片公司の茎湾にあった華達スタジオ(Wader Studio)でも田俊と共に追加撮影を行う。
9月5日まだ完全に編集が完了していない『ドラゴン危機一発』フィルムをプレビュー・ルームで3時間をかけて観た。
ゴールデンクラウンレストランにて雑誌「銀河書報」のインタビューを受ける。
9月7日 TV『ロング・ストリート』追加エピソードに出演のため一時渡米。
9月14日 倉田氏「悪客」の撮影終了。この頃、「ドラゴン怒りの鉄拳」の鈴木役のオファーがGH社よりあるが、ショウ・ブラザースとの関係を考慮し断る。
9月16日 ゲスト出演したTVドラマ『ロングストリート』第1話“The Way of the Intercepting Fist”(波止場の対決)放映 BLは主人公にケンカのやり方を教える中国人リー・チョン役 脚本は弟子スターリング・シリファント。
9月16日「BLACK BELT」誌の表紙となる。
Black Belt誌9月号−47250に髭をたくわえたブルース・リー表紙の截拳道特集号が発刊 この記事中で、有名な「月を示す指・・」理論を既に説く。
9月17日 アンドリュー・ミノル・木村 シアトルに誕生。
9月17日 星洲日報 ノラミャオはシンガポールに数日間滞在した後、香港に戻り、2本の新作映画の撮影を準備します。その一つは白景瑞(バイ・ジンルイ)監督、柯俊雄(コー・チュンシュン)との共演による現代喜劇「七年之愛」です。もう一つの新作は、ロウ・ウェイ監督で、彼女と李小龍が共演する「精武門」(旧題「大侠霍元甲」)です。
9月23日 ノラ・ミャオがシンガポールのメトロ百貨店 METRO SUPREME DEPARTMENT STORE のオープニング記念式典に出席。
9月24日 ブルース・リーは「燃えよカンフー」のオーディションを受けたが、プロデューサーのトム・クーンの前でヌンチャクを振り回すなど過剰なアピールと鈍りが仇となる。 このほかにマコ・岩松やジョージ・タケイ氏もオーディションを受ける。
以降、主役を白人俳優に変更し、デビッド・キャラダインが最終候補に残ることななる。
9月30日 ターキーとペギー夫妻の第一子の誕生を祝福する手紙を書く。
10月 レイモンド・チョウ氏が日本に来日し、勝プロを訪れ「新座頭市 破れ!唐人剣」がショーブラザース張徹監督の「獨臂刀(片腕必殺剣)」での訴訟問題の解決と新たな人材の申し出を行いました。
鈴木役には大映映画”大魔人”の中に入っていた橋本力氏を起用。他にも柔道家として勝新太郎のスタンドインを務めた勝村淳氏を起用。
10月1日 ハンマーヒルロードにあった「永華片場」は正式に「嘉禾片場」となった。
10月4日 ハリウッドでウォーターベッドを購入。
10月 この頃、テッド・アシュレー(Ted Ashley)宅の庭にて家族の写真を撮影。撮影者は夫人のLinda Palmaer。
10月 テッド・アシュレーがパラマウントがブルース・リーに触手を伸ばしているのを知り、独占契約を申し出る。
ブルース・リーは自身が温めていた企画「アー・サーム」(後に「ウォリアー」に改題)を提出し、好感触を得る。
10月7日 王天林監督作「追撃」香港公開。田俊(ジェームス・ティエン)
衣依(マリア・イー)共演作。
10月15日 香港へ向けてロバート・ベイカーや家族ともに出発する。
10月16日 アメリカより家族と共に帰国 九龍の明徳園マンションに引っ越し。
10月20日 主演第2作『ドラゴン怒りの鉄拳』のフォトセッション撮影開始。
怒りの鉄拳のマカオロケの時にマカオの1903年に創業した高級レストラン佛笑褸FATSIULAUで食事をしたらしい。
公園のロケーションはルイス・デ・カモンエス公園。
10月21日 ゲスト出演したTVドラマ『ロングストリート』第6話“Spell Legacy Like Death”(邦題:爆破四分前)放映/
10月23日 主演第2作『ドラゴン怒りの鉄拳』撮影開始の報道(工商日報)
10月23日 ロバート・ベイカーと『歓楽今宵』に出演。ベイカー相手にスパーリングを披露した。ブルースのスピードの前にベイカーは手も足も出なかった。
10月23日 「ドラゴン危機一発」深夜のプレミアショー。
10月28日 ブルース・リーが米国ワーナー・ブラザースと新TVシリーズ「ウォリアー」を計画中で12月に渡米し撮影開始予定との報道。
10月29日 ブルース・リーは「ドラゴン怒りの鉄拳」のエンディングの脚本改訂を要求との報道。
10月30日、香港の水上レストラン、「珍寶海鮮舫(ジャンボ)」で火災が発生した。
「ジャンボ」は香港の観光名所として知られる豪華絢爛な水上レストラン。同じくアバディーンの深湾に浮かぶ「太白海鮮舫(タイパッ)」とともに、「珍寶王国(ジャンボキングダム)」を構成している。香港の水上レストランの起源は水上生活者向けの食堂にある。のちに観光客向けのレストランとして発展し、最盛期の1950年代には10艘以上の水上レストランがアバディーンの海上に浮かんだという。
このうち最も規模が大きかったのが「タイパッ」。最初は木造の小さな船に過ぎなかったが、商人の王老吉に買い取られた後、2度のリニューアルを経て800人以上を収容できる大型船に生まれ変わった。
1960年代末、王老吉は事業拡大のため「ジャンボ」の建造を開始。しかし開業を1カ月後に控えた1971年10月30日、火災により船は全焼し、32人が死亡、13人が行方不明となった。その後、現在「カジノ王」として知られる何鴻栄(スタンレー・ホー)と、現・新世界発展有限公司主席の鄭裕トウが共同で「ジャンボ」の経営権を買い取り、建造を開始。1976年10月に正式に完成した。
10月31日主演映画第1作「唐山大兄」(日本題名『ドラゴン危機一発』)香港にて公開(〜11/22)同年度興行収益第1位
ゴールデンハーベスト製作。監督:ロー・ウェイ。出演:ジェームス・ティエン、マリア・イー、ハン・インチェ、トニー・リューイン、ノラ・ミャオ。
11月3日 香港ボーイスカウト協会主催「唐山大兄」(日本題名『ドラゴン危機一発』)チャリティープレミア
11月6日 20時に尖沙咀の 香港翠園酒家 Jade Garden Restaurantにて嘉禾電影主催「唐山大兄」の成功を祝う会と「精武門」製作発表会を開催。
11月8日 「鬼流星」The Comet Strikes/嘉禾有限公司/四維影業公司 香港公開。監督 羅維
副導演 植耀昌 武術指導 陳少鵬 出演ノラ・ミャオ
11月11日 ゲスト出演したTVドラマ「ロングストリート」第9話“Wednesday's Child”(邦題:美女誘拐)放映。
11月13日 家族でレストランで食事 この時に雑誌「幸福家庭」の取材を受ける。
11月15日 歡樂今宵 Enjoy Yourself Tonight がカラー放送を開始。
11月18日 ゲスト出演したTVドラマ『ロングストリート』第10話“?I See? Said the Blind Man”(邦題:殺人者の足おと)放映。
11月18日 発行「香港電視」1ページ掲載記事「李小龍在「歡樂今宵」大開拳脚」
11月21日 Sunday Post-Herald Magazineに、「The New Superstar of Mandarin Films」by Jerry Mooreの記事が掲載。また次回作の「ウォリアー」の構想があり、1週間以内に決定するだろう」と語る。
11月25日 香港査拳の会長の子にして俳優で香港フライ級ボクシングチャンピオン劉大川 Lau Tat Chuen が名声高まるブルース・リーが挑戦状を提出。
11月25日 ワーナー・ブラザーズから国際電話で「ウォリアー」の企画が破断になったという知らせを受ける。
11月26日 11/25〜12/1まで香港に滞在中のシンガポールの歌手であるレナ・リム&ザ・スタイラーズLena Lim & The Stylersの林竹君(ラム・チャクウン)Lena Limがスタジオを表敬訪問。
この頃、シンガポールにおける蔡李佛拳の大家クワン・ムンキン師父がスタジオを表敬訪問。
11月27日 撮影所で誕生日を祝うバースデーケーキを囲いスタッフ全員で記念撮影が行わえた。また午後八時より九龍Ambassadar Hotel 16階”The Dynasty Hall”にて誕生日を祝う会が催される。
12月 大映株式会社が不渡手形をだし破産。
12月1日 主演第2作『ドラゴン怒りの鉄拳』かなりのパートの撮影が終了。月末には完成の報道記事(工商日報)
12月1日 東英大廈にてゴールデン・ハーベスト社とコンコルドプロダクション設立へ向けて契約を更新する。
12月 この頃から本格的にコンコルド社のための新作である「青竹客 Green Bamboo Warrior」の脚本構想に取り掛かり始める。
12月3日 シンガポールの歌手である林竹君が香港ツアー時にブルース・リーを表敬訪問したと報道。
12月4日 東英大廈にてTed Thomasのインタビューを受ける。
12月4日、楊斯(24才)中環の美利道停車場大廈(Murray Road Muiti-storey Carpark)にて開催されたボディビル大会で優勝。
12月6日 ワーナーのTed Ashleyに手紙を書く。
12月 ノラ・ミャオが灣仔の修頓球場にて兒童遊藝大會のテープカットに出席。
12月7日 主演が計画されていたTVシリーズ『燃えよ!カンフー』の主役がデヴィッド・キャラダインに変更の正式連絡(Telegram 電報)をワーナーのJerry Leider氏より受ける。
12月9日〜12日 国片欣賞週(中華映画祭)にGHスターともに参加 ローリェも参加
12月9日 のちに“現存する唯一のインタビュー・ビデオ”『ロスト・インタビュー』となるTV『The Pierre Berton Show (The Mandarin Superstar) ピエール・バートン・ショー』でインタビューを受ける。
この頃、ゴールデンクラウンレストランにて、ブルース夫妻とリチャード・ンとスーザン夫妻らと会食。
12月16日 発行「香港電視」2ページ掲載記事「李小龍要「打倒自己」 」
12月19日 リンダ・リーがロバート・ベイカー夫妻宛に手紙を投函。「ブルースが第3作目の脚本と監督と主演の準備中で忙しい」
12月23日 発行「香港電視」1ページ掲載記事「請重播「人海孤鴻」」
12月27日 ローウェイの誕生日を祝うパーティーに出席 羅維慶生辰。慶相逢酒樓 Good dates restaurantにて。
12月28日 大映株式会社が上場廃止で倒産。永田雅一氏の大映が終焉。
12月29日 コンコルド・ピクチャーズ (協和電影公司) を正式に設立。
●この年ニューヨークのブロードウェイは史上最低の観客動員となった。時代はハリウッドとロックミュージックとなっていく。
●「武道」コンコルド・ピクチャーズを設立したブルース・リーが当初企画していた作品。そのプロットを語る彼の録音が残っており、その断片をレコード「My Way of Kung Fu」やドキュメンタリー映画「ブルース・リーの生と死」で聴くことが出来ます。
やがてこの作品の思想は「ドラゴンへの道」として結実していきます。
●新たに青竹客 Green Bamboo Warrior の構想を練り、脚本家のNi-Kuang氏に脚本執筆を申し出た。
●西大門大韓合気道協会本部道場にゴールデン・ハーベストの関係者が尋ねて来た。すでに韓国と香港の合作武術映画が多数作られていた時代であり、ブルース・リー登場以後、実戦武術に関心を持ちはじめた香港映画界から茅瑛(アンジェラ・マオ)や洪金寶などの俳優たちが武術の研修のため韓国を訪れました。
そのメンバーの中には成龍もいたといわれています。黄仁植はこの時のお礼にとゴールデン・ハーベスト社から映画出演の要請を受けることにしました。
1月5日 リンダ夫人、子供達が米国へ。見送り
1月7日 ロマン・ポランスキー宛に手紙を書く。ワーナー・ブラザーズとの新作の計画があり監督依頼を打診。
1月9日 マリア・イーさんらと大型見本市「第29回香港工業出品展覽會」(略称:工展会)に出席。子役Choy Lai Jing(蔡麗貞)など参加。蔡麗貞は74年に「三唱李小龍」を発表する。
工展会は1971年12月9日から1972年1月16日まで灣仔新填地で行われた。
1月10日 香港に戻ってきたジミー・ウォング夫妻を空港まで出迎え。
1月15日 レイモンドチョウがワーナーと打ち合わせのため米国と英国へ、ブルースとジミー夫妻とロー・ウェイ夫妻が空港に見送り。
1月16日 米国へ、渡米。ローウェイ夫妻やロバートチュア氏らが見送り。啓徳空港のミラマーレストランにて記者会見。自宅の売却や家財の輸入手続き、ワーナーとの「青竹客」の交渉が主な目的であった。
2月8日 GH社はノラミャオの誕生日会開催。苗可秀慶生辰。
2月9日 鬚を貯えアメリカより香港へ帰国 ロ−ウェイ夫妻などが出迎え。
2月12日 羅維監督「金施風」(邦題:ノラ・ミャオ・ザ・ハリケーン)The Hurricane / Gold Cyclone Whirlwind 嘉禾有限公司 香港公開。パトリック・ツェー共演作。
監督 羅維 助監督 植耀昌 武術指導 陳少鵬
2月15日 春節
2月18日 ブルース・リーが次回作の脚本が難航しているとロー・ウェイに相談。
2月19日 レイモンド・チョウがロー・ウェイに次回作の脚本を依頼。
2月GH社新年会に髭をはやして出席する。Hotel Miramar 2階中華レストランPrincess Gardenにて。
2月21日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「第三作目のドラゴンへの道を考案中」「メルセデスベンツ350SLを購入する」
2月22日 アメリカABCテレビ「今週の映画」にて新シリーズ「燃えよ!カンフー/原題:Kung Fu」のパイロット・フィルムを放映。
2月28日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「第三作目のドラゴンへの道は日本でロケーションを検討している」
このころ、次回作に日本ロケの「冷面虎」の企画がオファーされるが、ロー・ウェイの脚本を読んだ当初は乗り気だったブルースも次第にやる気がなくなり始める。
●中国の唐の時代の有名な李玄覇などの英雄を模した古衣装を身に着けてテスト撮影をするが、制作には至らなかった。(当時のゴールデン・ハーベストの既存小道具・古衣装を身にまとい撮影をしたもの)
後にリンダ夫人の「ドラゴンへの道が出来るまで」という寄稿をBlack Belt紙に発表した記事の中にこの日の衣装テストシューティングを仮タイトル「黄面虎」の衣装テストを行うと記載あり。
この頃より本格的に「ドラゴンへの道」の脚本に取りかかる。
●ノラ・ミャオがこの頃、九龍のチム・サーチョイにオートクチュールの店「Nora 」を開店。74年頃に閉店。
3月1日 華僑日報 ブルース・リー主演『黑夜之歌』ロー・ウェイが撮影チームを率いて日本に赴きロケ撮影。『猛龍過江』の脚本を執筆中のブルース・リーはじっと考える余裕はない。この時間を利用して別の新しい映画を撮りに行く。3月にロー・ウェイ、ブルース・リー、マリア・イーとスタッフ全員が日本に行き、『黑夜之歌』のほとんどのロケと芝居の撮影を行うことも決まった。
3月2日 工商日報 300万(HK$)監督のロー・ウェイが監督する『黑夜之歌』は、すでにクランクインしており、この映画の男女の主役はブルース・リーとマリア・イーで、ほかにもリー・クンとティエン・フォンが出演する。もし日本への手続きが早ければ、『黑夜之歌』のロケ隊は、3月10日ごろに出発するだろう。
3月3日 工商晚報 『黑夜之歌』は "歌 "と付いていてかなりアーティスティックだが、実はブルース・リーとマリア・イーが再びタッグを組み、10日ほどかけて日本ですべての撮影を行う予定のファッションアクション映画だ。この映画は、『唐山兄弟』のオリジナル・キャストを起用し、引き続きロー・ウェイが監督を務める。
3月4日 工商晚報 サム・ホイ許冠傑は監督不在で『鐵拳情歌』が延期、キンフー胡金銓は現在、『迎春閣的風波』を撮影する準備をしており、黄楓は現在、韓国合気道総教頭の池漢載を迎え、A級キャストの大作『合気道』をクランクインする準備をしている。撮影開始の遅延は、ブルース・リーとは関係がない。
3月15日 工商日報 ブルース・リーは、2作目の香港映画『精武門』が観客の熱狂的な支持を得たのを受け、ゴールデン・ハーベストの3作目『冷面虎』の製作に引き続き取り組むことを決めた。
情報によると、遅くとも今月20日までに、ロー・ウェイ監督とともに日本へ向かい、ゴールデン・ハーベストの人気スター、ノラ・ミャオとマリア・イーも出演する。ゴールデン・ハーベストのレイモンド・チョウ最高経営責任者は、製作やその他の技術的な問題のため、今月中旬に日本に行き、「盲俠」の勝新太郎と会うことにした。この『冷面虎』の元の脚本は、以前から噂されていた『黑夜之歌』のもので、
現在もロー・ウェイ監督が指揮を執るファッションアクション映画だ。
3月11~12日「ドラゴン怒りの鉄拳」プレミア上映出席…観客の大絶賛を受ける。
3月中旬 ブルース・リーの次回作「冷面虎」の返答が無く、連絡が途絶え始め、レイモンド・チョウの命令で「冷面虎」の主役が正式にジミー・ウォングに交代。 この事がブルース・リーとロー・ウェイとの軋轢となる。
3月21日 ブルースリー夫妻ハイアット・リージェンシー・ホテル(Hyatt Regency, 67 Nathan Rd)の「ヒューゴース」Hugo’s restaurantというレストランでベティティンペイと会う。レイモンドチョウが紹介。
ブルースと知り合ったのはゴールデン・ハーベスト社(嘉禾電影有限公司)の現会長、レイモンド・チョウ(鄒文懷)氏の紹介によるもの。
3月22日「ドラゴン怒りの鉄拳」香港公開…ゴールデンハーベスト製作。監督:ロー・ウェイ。主演:ノラ・ミャオ、ジェームス・ティエン、ハン・インチェ、橋本力、ロバート・ベイカー。前作が作った興行収入の記録を塗り替える大ヒット!
4月1日 チムチャーツイのプリンセスシアターにて上演中のレベッカ・パン主演「白蛇伝」Mandarin musical show “Lady White” at Kowloon’s をブルース夫妻が歓談。
4月1日 モハメド・アリが東京の日本武道館でNABF 世界ヘビー級タイトルマッチでマック・フォスターとの挑戦を受ける。15ラウンド判定で大差でアリの勝利となる。
4月 「合気道 邦題:アンジェラマオの女活殺拳」の撮影開始 7月まで。倉田氏にオファーあり、ショウ・ブラザースとの関係を考えて受けることはなかった。
●この頃、赤のメルセデスベンツ350SLを12000USドルにて購入。
4月 この頃、チムチャーツイの客船ターミナルにて、マリア・イーやノラ・ミャオらとフォトシューティングを行う。また、客船Coral Princess号の船内に招待を受ける。
4月5日 SBスタジオの友人の楚原の元をブランドンと訪れる「愛奴」の撮影キャストであったリリー・ホーと記念撮影。
4月10日 スターリング・シリファントが「サイレント・フルート」FOXとの契約に成功し夫婦でバカンスがてら香港を訪れる。ブルースはノラミャオとマリアイーを同伴し空港で出迎える。
4月12日 ノラ・ミャオの「心蘭的故事」The Story of Daisy / The Story of Hsin Lan 嘉禾有限公司 香港公開。撮影地は台湾。監督 宋存壽 武術指導 龍飛 主演 柯俊雄
4月 「冷面虎」のスタッフが撮影のため日本へ。ノラ・ミャオも参加。
4月 鄭君綿と胡楓が主催するナイトクラブでのパーティーに出席。
4月下旬 チム・チャーツイの河内道の「小欖公レストラン」でイタリア・ロケ同行のため、レイモンド・チョウがブルース・リーにチャップリン・チャンを紹介。
Black Belt誌May 1972に特集記事「Bruce Lee’s Smashing Return to the Orient」
5月1日 「ドラゴンへの道」のヒロイン・オーディションを精武道場の2階のセットを使用して行なう。
5月1日 九龍の北京酒楼でのGH社主催のパーティーに出席。
5月2日 ノラ・ミャオの「ドラゴンへの道」出演が決定。
5月3日頃 ベティ・ティンペイと「Hair by susan」にて散髪。
5月3日 星洲日報 ブルース・リーは新作のロケ地を探すため、すぐにヨーロッパに向かう。
ロー・ウェイとの協力の可能性はほとんどない。ブルース・リーによると、4日後に香港を出発してヨーロッパにロケに行き、10日後に香港に戻って、チームを率いて「猛龍過江」のロケに行く。先週、ブルース・リーは新人のオーディションをした、しかし、ブルース・リーは、新人がこの映画の役に合わなかったことと、自分にとって初めての監督作であるため、より多くの注意を払う必要があるが、彼はノラ・ミャオとこれまでに二度共演しており、手馴れているため、新人を使うよりもずっと楽で便利だったとも述べました。
5月4日 ブルース・リー、「ドラゴンへの道」ローマ・ロケへ1陣出発。随行スタッフは梁希明Leung Hey-Ming植燿昌Ricky Chick 西本正Tadashi Nishimoto。
東京から帰国したばかりのノラ・ミャオらが見送りに。
5月5〜7日 ローマ到着後、ピサやフィレンツェなどにもロケハンした。
5月7日 ローマロケ2陣、ノラミャオ等ローマへ出発。
5月7日 Straits times誌面にて古装撮影をした時の記事が掲載。
5月 ローマにてチャック・ノリスとボブ・ウォールが合流。
●ローマではホテル・フローラに宿泊。このホテルのコインランドリーの入り口がヒロイン役ノラ・ミャオのアパートの入り口となった。売春婦役のマリサ・ロンゴと部屋のシーンはブルースが宿泊していた部屋で撮影された。
●ローマでのロケーション責任者のリカルド・ロビーは銀行員としても登場。撮影後にマリサ・ロンゴと結婚。
●主なロケ地は、レオナルド・ダ・ヴィンチ空港、ポポロ広場、カンピドリオ広場、フォロ・ロマーノ、コロッセオ、ヴィア・ヴェネト通り、ローマ・テルミニ駅通り、四大河の泉、ジュリーホテル(外観のみ) 、ヴェラーノ墓地内の通り、またローマから東へ30キロにあるティヴォリのエステ家別荘でも撮影が行われ、オーヴァルの泉、百噴水、ネプチューンの泉が登場する。
5月14日 毎週日曜日開催のPorta Portese sunday marketポルタ・ポルテーゼの蚤の市で買い物。
5月18日 ブルース・リー、「ドラゴンへの道」ローマ・ロケから香港に戻る。
5月 フェアウェルパーティーにボブ・ウォールらと出席(タンクトップ姿)同レストランにて粤劇の劇団とも再開し歓談する。
5月20日「華僑日報」に記事_「獨霸拳王」武術指導が李小龍に決定?
5月 九龍のミラマーホテル”Hotel Miramar’s Theater Restaurant” 「獨霸拳王」製作発表記者会見が行われブルース・リーも出席。Miramar Hotel, Kimberley Rd(死後「ありし日のブルース・リー」に収録)
5月 謝賢パトリック・ツェー監督で主演の「窄梯」Madness of Loveのセットをユニコーン・チャンらと表敬訪問。丁珮も出演。1972年10月12日中国香港上映。
Tse's Brother Motion Picture Production Company 謝氏制作。
6月 マリア・イー日本より帰国。
この頃、九龍砦に売り出し中の新居を購入。即、改装工事に取り掛かる。
6月1日 アンジェラ・マオ出演、黃楓監督の「鐵掌旋風腿」(邦題:アンジェラ・マオ旋風レディ!鉄掌拳) 香港公開。
6月2日 リンダ・リーがロバート・ベイカー夫妻宛に手紙を投函。「ドラゴンへの道の制作の近況や新しい住居を設けた事」
6月9日 新明日報 ブルース・リーは最近、九龍塘に2階建ての庭園風の洋館を物色した。
敷地は約1万2千呎で、洋館式だが、しかし、古風な田舎のレイアウトで、
花園の中には池があり、水の流れる小さな橋の上には、どちらも花が咲き乱れ、
庭にはスイスのような緑の芝生が生い茂り、とても静かで優雅である。しかし、上記の家はまだ販売されておらず、交渉中である。現在、ブルース・リーは『猛龍過江』のセットと一部のロケの撮影を急いでいる。セットは牛池湾撮影所(GHスタジオ)で、啓徳空港や粉嶺などのロケーションがある。
6月15日 発行「香港電視」1ページ掲載記事「李小龍上電視介紹空手道世界冠軍」
6月17日 「華僑日報」に記事_『獨霸拳王』キャスト決定。
6月19日 夫人と長男ブランドンと台風災害のチャリティー番組に出演。ブランドンは7才ながらも蹴りによる板割りを見事に成功させた。“六・一八雨災”而制作的《籌款賑災慈善表演》(タンクトップ姿で出演した映像が現存。)
6月28日「ドラゴンへの道」の共演者チャック・ノリス、ボブ・ウォールとTV出演。
6月頃 家燕カー・イェン「ドラゴンへの道」のセットにてブルースらに表敬訪問。
6月頃 ショーブラザーズの名監督・楚原「ドラゴンへの道」のセットにてブルースらに表敬訪問。香港歌手の薜家燕Nancy Sitがスタジオを表敬訪問。
●この頃から九龍の大和レストランに頻繁に通う。(Osaka Japanese Restaurant, 14 Ashley Rd)
7月頃 GHスタジオにて撮影中の「合気道 邦題:アンジェラマオの女活殺拳」のセットをチャック・ノリス、ボブ・ウォールと共に訪問する。
●友人ジェームス・リーの教則本「詠春クンフー」の技術顧問を務める…ジェームスは、この年に急死してしまう。
●「BLACK BELT」誌が選ぶの世界10大武術家のNo.1(ホール・オブ・フェーム)に選出され、武術家として最大の名誉を得る。
7月12日 工商日報 ブルース・リーが「猛龍過江」撮影時のローマでの興味深いエピソードを語ってくれた。ブルース・リーは、「猛龍過江」のロケでイタリアのローマに滞在したときのことについて、「多くの人がパスタを食べたことがあると思うが、香港や他の場所で食べるパスタはすべて本物ではない。
本物のパスタの味はどうなのか、食べたことがある人は少ないと思います。香ばしくてクリーミーなパスタを香港とイギリスで食べられることをとても嬉しく思う。 私は香港でこの世界的に有名な食べ物をよく食べた。 したがって、今回イタリアに行ったとき、まず最初にしたことは、ローマのパスタを食べてみることだった。 ローマの本場のパスタの味を試してみたかったのだ。イタリアのパスタがあんな味だとは想像できなかった。 パスタ自体が生で、硬くて無理に咀嚼した、他のことは言うまでもない。香港で食べたのとは全然違うし、あの一度きりで、もう二度と試す勇気はない」。
7月19日 ウー・ガン(Wu Ngan Jai & Leung Sui King )の結婚披露宴にノラ・ミャオらと出席。会場はThe Hoi Tien Restaurant
7月26日 ベティ・ティンペイと共に金銓電影公司製作の胡金銓の『忠烈図』The Valiant Onesのセットを表敬訪問。
7月27日 「華僑日報」に記事_『獨霸拳王』撮影開始(記者会見・倉田氏らと記念撮影7/26)場所は嘉禾制片廠にて。
麒麟掌(星海影業公司 製作者 時潮欽・曲興華)小麒麟(ユニコーン・チャン)の初主演作品で、ブルース・リーが武術指導をつとめる。(Pak Tam Chung, Sai Kung)
武術指導をしている姿を盗み撮りして無断使用された問題作。実際には武術指導は1日だけで、小麒麟のための名目上のものと言われている。
当初のタイトルは「獨霸拳王」、陳惠敏(チャーリー・チャン)が準主役級でキャスティングされ、ポスターも作られていたが、後に改題され陳惠敏の代わりに倉田保昭氏が起用されることになった。
7月27日 発行「香港電視」2ページ掲載記事「翡翠台彩色偵探電視片集 李小龍參加「盲人追兇」演出」
7月29日 九龍塘金巴倫道41号にある大邸宅「栖鶴小築」の改装工事が終了し、九龍塘の新居に移り住む。—九龍塘金巴倫道41号“栖鶴小築”
8月頃 シェパードを飼い始める。名前は阿財(アツォイ)
この頃、アメリカのフリーライターのアレックス・ベンブロック氏がワーナー・ブラザースを介し、ブルースとの電話インタビューを行う。
8月5日 香港の「Chivalrous World」がブルース・リーと劉大川の決闘を報じる記事を出版。
同時期に空手チャンピオンのチャ・ノリスが来港中であると知ると、劉大川はチャックにも対戦をメディアを通じて要求するが反応は無かった。
8月頃 銀河書報の取材もかねてWoo Fung(胡楓)“栖鶴小築”を訪問。室内や屋上や庭園を散策。
8月10日 新明日報 『猛龍過江』に続き、自身が脚本・監督・主演を務める第二の新作『南拳北腿』の脚本を急いで執筆しており、撮影開始もそう遠くないと話している。数か月前、ランラン・ショウはチョーユン楚原を通じてブルース・リーに映画出演依頼していたという。ショウ・ブラザーズがブルース・リーに提示した条件は非常に良いもので、当時、ブルース・リーは『浪子故事(放蕩息子物語)』の脚本を受け取ったことがある。
8月14/15/16日 シンガポールの「ニューネイション New Nation」誌に3日間にわたり、「ブルース・リーの内幕 Inside Bruce Lee」が掲載。取材記者はパン・チェン・リァン( Pan Cheng Lian)
8月16日「ドラゴンへの道」編集作業を終了する。
8月19日 弟子カレム・アブドゥール・ジャバールが香港に来港する事が決定。
8月20日夜 ショーブラザーズの「壁虎」撮影現場を表敬訪問、楚原、陳寶珠、羅烈と歓談。「南国電影」9月号に掲載。
8月21日 ブルース・リーが嘉禾電影ゴールデン・ハーベスト社との契約破棄同意書にサイン。
8月22日 小麒麟とともにショーブラザーズ社を訪れる 「刺馬」の撮影現場では張徹、王鍾、陳觀泰、姜大衛など超豪華な顔がズラリ。
●ローマロケ後の香港でのスタジオ撮影も終らせ、リーが編集作業に取りかかっている間、次回作「死亡的遊戯」のプロダクションマネージャーとなった韓国出身の彭長貴が、韓国に(俗離山の法往寺の五重塔、捌相殿 パルサンジョン-現存する韓国の国宝で国内唯一の木造五重の塔)ロケハンに出発した。
彼は、韓国で様々な寺院の外観や内部の写真を撮って持ち帰り、それを元にしてスタジオに「死亡遊戯」のクライマックスで使用される塔の内部のセットを組んだ。
Black Belt誌September 1972に特集記事「The Sticky Hand of Wing Chun Kune Fu」
9月5日 弟子カレム・アブドゥール・ジャバールが22時にTWA745便にて香港に到着。
9月6日 新作「死亡的遊戯」弟子カレム・アブドゥール・ジャバール戦を極秘裏に撮影〜
この時点ではタイトルは無く「試鏡」とされていました。〜9日まで。
9月 この頃、フレッド・ワイントロープ氏とアレックス・ロス女史がワーナーの子会社であるセコイアピクチャーズとコンコルドとの提携のためスタジオを訪問。当日はキン・フーとチャップリン・チャンも訪問。
9月9日 午後9時よりTVシリーズ『ロングストリート』第1話“Way of the intErcepting fist”放映。
9月10日 植耀昌Chieh Yiu Changの結婚式に出席。
9月20日「死亡的遊戯」ダニー・イノサント氏が演ずる敵役パスカルとのヌンチャク戦シーンを撮影。この時点ではタイトルは「黄面虎」。
9月20日 ブルース・リー、シアトルの友人ターキー木村に10月8日までに香港に来てほしいとの依頼の手紙を書く。
9月20日 新明日報 李小龍と陳寶珠(コニー・チャン)のアメリカ合作映画が話題に
9月23日 レイモンド・チョウ氏よりターキー木村に香港行きのチケットを郵送する。
9月25日 リンダ夫人とティンペイ チィムチャーツイの菊池武夫のBIGI(BIGI時装公司)新店舗開店パーティーに駆けつける。
9月25日 「死亡的遊戯」の構想ノートにJAL便にて午後二時三十分到着との記述。
9月26日 ダニー・イノサントらと野原のシーンの撮影。この時点でタイトルは「死亡的遊戯」となる。
● 9月末から10月末まで、香港新界の東部、西貢半島の馬鞍山郊野公園内で数日にわたり屋外撮影をする。主に五重塔を守る番人たちの凄腕振りを披露するデモ映像を目的として撮られた映像でした。撮影は数度に渡って行われ、参加メンバーは西本正カメラマン、小麒麟、元華、林正英、ビリー・チャン、ウー・ガンに加え、五重塔の番人役であるダニー・イノサント、池漢載、黄仁植。この時の映像の一部が「ブルース・リーの神話」で観ることができますが、これ以外の数分間の映像の存在も確認されています。
9月27日「死亡的遊戯」ダニー・イノサント氏が演ずる敵役パスカルとのヌンチャク戦シーンを撮影。カチンコに書かれたタイトルは「死亡的遊戯」。
9月 GHの隣のスタジオで撮影中の「馬路小英雄」を表敬訪問。上官靈鳳や許冠傑らとの合影写真。
この頃、ゴールデンハーベスト社はブルースの要請で脚本家のTam Neng 女史に「細鳳」の脚本を依頼する。
ブルースは孤児院出身の自動車整備工の配役で、アクションシーンの無いドラマとなっていた。
ブルースから好感触を得た脚本であったが残念ながら実現は出来なかったとのこと。
9月頃 胡金銓(キン・フー)金銓電影公司と嘉禾との共同製作の『迎春閣之風波』The Fate of Lee Khanのスタジオセットを表敬訪問。
Black Belt 誌 Year Book 1972に特集記事「Boom in the Martial Arts」「The Black Belt Hall of Fame」
●10月1日頃(未確認情報) 中国の建国記念日を行事の時に開かれた映画祭に李小龍と黄仁植が出席。(黄仁植 談)
●GH社主催の雙十國慶のパーティーに出席。
10月2日 リンダ・リーがロバート・ベイカー夫妻宛に手紙を投函。
10月3日 新明日報 ワーナーの映画部門の責任者であるフレッド・ワイントローブが、ブルース・リーをアメリカへ招き、彼のために映画を製作することになり、その打ち合わせのために一昨日の午後4時に香港に到着した。 ゴールデン・ハーベスト社の責任者であるレイモンド・チョウが、リーの外国人妻とともに出迎えた。『猛龍過江』のパイロット版と『死亡遊戲』の撮影を見た後、フレッドはすぐに承諾した。
10月12日「合気道」香港公開。
10月12日 工商晚報 ブルース・リーは最近、非常に秘密主義になっているようだ。 現在撮影中の映画『死亡遊戲』(旧名『黄面虎』)に関する情報は一切明かそうとせず、完成した映画『猛龍過江』さえもまだ秘密だ。
10月14日 米国ABCテレビにてワーナー・ブラザース製作の「燃えよカンフー」(原題 Kung-Fu)のシーズン1が初放映。 原案はブルース・リーだが脚本はハーマン・ミラー氏。主演のKwai Chang Caineの役はDavid Carradine氏。
10月14日 新明日報 昨日、信頼できる筋からの情報によると、「名声と富を両得した」ブルース・リーは、最近、自身の映画会社で映画を制作するだけでなく、さらに新たなビジネスとして、500万ドルで中規模で成功している撮影所を買収する準備を進めているとのことです。
10月17日 新明日報 ブルース・リーは、500万香港ドルを投じて映画スタジオを購入するという噂を否定。昨日、記者がブルース・リーの友人から得た情報によるとその友人もこの噂に懐疑的で、「それは冗談の類ではないか」と考えているようです。さらには「ブルース・リーは500万ドルもの資本をどこから調達するのか?」と疑問視する声もありました。また、ブルース・リーの妻であるリンダも記者に対し、この噂については何も聞いていないと語っています。
10月21日 新作「死亡的遊戯」韓国の強豪、池漢載戦を極秘裏に撮影〜10/25
10月25日 解元のスタントダブルに黄仁植を起用し撮影。韓国スタッフと会談。
●アメリカの旧友ダグ・パーマーが撮影現場を訪れた際、「韓国からわざわざ武道家(池)を呼び寄せて最近撮影したという格闘シーンにはがっかりした」というコメントを残している。
同じく、池漢載自身も「ブルース・リーとの仕事は金輪際したくない」とのコメントを残したという。
●この頃、自分のネーム入りのロールスロイスを発注。
10月27日 丁珮(ベティ・ティンペイ)主演「香港過客 Stranger in Hong Kong」香港公開。邵氏兄弟有限公司、監督は劉芳剛と桂治洪。武術指導に鹿村泰祥。
10月28日 柯俊雄と丁珮(ベティ・ティンペイ)共演作「東南西北風」香港公開。台湾白氏電影製作。
10月30日 「ドラゴン怒りの鉄拳」にて第十回台湾金馬奨最佳技藝特別奨を受賞。
10月末 この頃、「BLOOD ANDD STEEL」の契約の為、レイモンド・チョウとともに渡米。ウィルシャードライブ沿い、ロデオドライブの近くに位置する高級ホテルのビバリー ウィルシャー ビバリーヒルズ (フォーシーズンズ ホテル) Beverly Wilshire Beverly Hills (A Four Seasons Hotel)に宿泊。
11月 ワーナーとの打ち合わせの中で「BLOOD AND STEEL」の脚本内容について中国人同士の会話のシーンは広東語を用いたいと要望するが最終的には実現せず。
11月7日 米国のMarcy Gimにトレーニング器具THE CIRCUIT TRAINERをオーダーする。
11月頃 「鐵娃 Kung Fu Girl」の撮影で鄭佩佩と宍戸錠と染野行雄がGHスタジオにて競演。
11月10日ー13日 豪畔酒店 Harbour Hotel に宿泊
11月11〜27日 シンガポール「ドラゴンへの道」ワールドプレミア先行上映、キャセイやオデオンなどの映画館で上映された。
11月14日 多汗症の手術のためCanossa hospital に入院ー16日に退院。
11月19日 TVBの歓楽今宵に出演。
11月21日 米国のハーブ・ジャクソン氏に「ドラゴンへの道」プレミア時にジェームス・リーと共に招待をするという内容の手紙を投函。
11月22日 ロバート・ベイカー氏宛に手紙を投函。「レイモンド・チョウ氏からの独立を考えている」
11月23日 ワーナーと合作映画正式契約を結ぶ。
11月27日 誕生日
12月 ジューン・リー氏に手紙を投函。「香港で新作のプレミアナイトが23日に再度スケジュールが変更。また明確なアイデアは出来ていませんが、テコンドーというタイトルの映画の可能性があります」
12月2日 武術家であり詠春拳葉問派宗師 葉問(イェー・メン、イップ・マン、1893年10月1日 - 1972年12月2日) 九龍・旺角通菜街の自宅で逝去、享年79。香港新界北部、粉嶺にある蝴蝶山に埋葬された。
12月5日 朝日新聞にブルース・リーを伝える記事あり。アジア圏で大人気のブルース・リーの最新作などを伝えるシンガポール特派員からの記事が掲載された。
12月7日 Michael Allinによる仮題「BROOD AND STEEL」の脚本第一稿が完成。
12月19日 清水湾にあるショー・ブラザーズにて「年羹堯: 年 (niyan) 羹堯 (Geng-yoo) ねんこうぎょうの衣装撮影を行う。
これはショウ・ブラーザースとブルース・リーとの間で持ち上がった企画。
中国清朝中期に実在した悲劇の武将年羹堯を主人公にした歴史アクション、ショウ・ブラザースで撮影された弁髪姿の扮装をしたブルース・リーをテスト撮影。
この頃。ブルースがショウ宛に手紙を書く。「現時点では、9月から11月の3ヶ月がショウ用に空けてあると思ってほしい。具体的な条件は私が到着次第、話し合おう」と。
しかし後日、何らかの原因でこの企画は破綻する。
12月20または21日 華僑日報主催の第16回十大電影明星受賞式典(十大電視明星金球獎)に出席。会場は香港大會堂 ノラ・ミャオは韓国にて撮影のため欠席。
12月12日 スターリング・シリファント脚本「ポセイドン・アドベンチャー」全米公開。
12月14日 発行「香港電視」「李小龍與電視藝員同享歡樂今宵」
12 月19日 衣装テストのために極秘にショー・ブラザーズのスタジオへ。
12月23日 「ドラゴンへの道」プレミアショー。 Queens Theater Kowloonにて。
この頃、翡翠台 (TVB-Jade)の番組である「蒙太奇」 "TVB Montage"に出演する。
司会はセクシー女優からマルチタレントへ転身した狄娜(Tina Leung or Di Na)さんが担当し、当時の最先端の映画のクリップやコンテンツを紹介する人気番組であった。
12月28日 ジェームズ・リー、炭肺症のため死去。
12月30日 「ドラゴンへの道」香港公開。